近代の超克 ~ニヒリズムを超えて~ | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

明けましておめでとうございます。
 
本年も宜しくお願い致します。
 
戦後日本を一言で言うなら「大衆社会」であり、そして大衆社会とは一種の巨大なユダヤ社会のようなものであり、現代社会における最大の問題点とは手段の目的化=ニヒリズムであって、本来は良く生きるための手段でしかない自由や平和や人権や金銭が目的そのものとなってしまった「価値序列の転倒」こそが保守主義者たる者の最大の敵として論じられなくてはならないはずです。
 
 
日本文化とアメリカ文明とがぶつかる文化的汽水域に今我々は居るわけですが、今我々が直面している最大の敵とはアメリカニズムがもたらしたものとしてのニヒリズムです。
 
手段の目的化とは、例えば安倍政権が成立に躍起になるカジノ法案などがその見本でしょう。財政危機だからといってたかだかの手段としての金銭を、護るべき本来の目的としての「国柄」に優位させるなどは、手持ちの服に体型を合わせようとする努力を放棄した肥満者のようなものでしょう。
 
同じように、今更戦前の家族制度(家長制度)を復活させるなどは時代錯誤だ、時代の流行に合わせた合理的な対策を考えるべきだなどと賢しらに言う知識人も「時代の迎合者」であり度し難い近代主義者です。
 
近代的に自立した個人の自由を温存したまま、人口減少や少子化や核家族化や高齢社会に歯止めをかけようなどといったそんな巾着切り(スリ)みたいな真似ができるはずもありません。
 
民主主義にしてもそうでしょう。
 
民主主義とは例えるならキャバレーの踊り子みたいなもので、スカートをパッとめくり太ももをチラリと見せれば大抵の者はついてくる。
 
しかし民主主義はそこで止めちゃう。偽善欺瞞の衣を脱げばその正体がバレてしまうからですね。
 
ニヒリズムを超えるには尋常でないやり方、つまり、我々自身の身を斬るしかありません。もちろん私たちの精神は常に全体主義からの離脱を求めてやみませんが、しかし、好むと好まざるとに関わらず、私たちは共同体的な連帯関係に自ら縛られ、全体に参与し、緊密なる秩序体系に精神を従属させ、そして行動することによってでしか私たちは自由を実感することができないのです。
 
つまり、私たちがカオスから逃れ、真の自由(秩序)を得るためにはどうしたって形式的な制約(伝統という不文のルール)が必要なのです。
 
私たちは真の自由のために死刑囚にして死刑執行人とならねばならない。
 
 
草莽の民である我々国民がここで踏ん張らねば、わが祖国日本は三島由紀夫が予言した通りの、「カラッポな、ニュートラルな、中間色の、抜け目のない、富裕なだけの経済大国」となり下がり、「日本人」は消え去り、ただ実体として存在するだけの伝統なき人々=ユダヤ主義者(流浪の民)が無定型にふらつくだけの弓なりの島国と化してしまうでしょう。
 
そうなる前に、我々最大の敵である個人主義・自由主義・民主主義・国民主権主義・人権主義・啓蒙主義・・・といったアメリカニズム(近代主義)を駆逐しようではありませんか。
 
 
PS・・・お気に入りのブロガーさんにコメントを書こうとしたのですが、どういう訳か年が明けてからコメントが投稿できなくなりました。
 
「コメントする」あるいは「返信する」をクリックしても「応答がありません」と表示されてしまうのですが、ここをご閲覧頂いている方の中で、どなた様か対処法をご存知の方がおられましたらご伝授頂ければ幸甚です。