早いものでもう10年経ちました。
鈴鹿を走り始めて10年です。
80年代後半にも鈴鹿を走っていました。
当時鈴鹿4耐出場を夢見て、SP400の86FZRで。
でも当時は空前のバイクブームでもあり、鈴鹿サンデーのエントリーは10組を超えていたのもザラでした。(5~600台位かな?)
今では考えられません。
そんな激戦の中予選を通過するのは並大抵のことではなく
4耐を走るなど正に夢物語で、すでにエントリーからして諦めていました。
そもそも鈴鹿の耐久に興味を持ったのが80年代にやっていた
Do!Sportsという番組でした。
84年の夏、ツーリングに行った先でこの番組をたまたま見ました。
当時この番組はモリワキの4耐や8耐を特集し、また鈴鹿耐久にエントリーもしていました。
その中で83年の4耐で清水国明氏がエンジンの止まったマシンで
ゴールを目指す姿を見て感動しました。
鈴鹿でこんなレースをやっていたのか とこの時から鈴鹿と耐久レースに興味を持ち始めました。
テレビで見たレース後大泣きしているスタッフなんかを見て
大の大人がこんなに泣いているレースってどんなものなんだろうと
ずっと思っていました。
当時は仕事も非常に忙しく、自分の実力では鈴鹿耐久を走るなんて
無理なことでしたが、夏には2・4・6・8耐をできるだけ観に行っていました。
心に残るレースもいくつもありました。
87年の8耐、チェッカー5分前のヨシムラの転倒、
93年だったか、ゴール時観客のコース侵入で赤旗となり
表彰台・ルマン出場を逃したカワサキ、
90年の6耐では最終ラップにトップのBEETレーシングが130Rでガス欠し、TSRが逆転優勝しかけたレースなど。
その他いろいろなドラマを見ていつもいつも感動していました。
そのうちとあるSBクラスで走っていた方と知り合い、8耐もお手伝いでお邪魔しました。
8耐のピットにいるということ自体が夢のようで、これでもう思い残す事はないな・・ と思っていました。
それでも必死で予選を通過し泣いていたライダーを見て、その意味が
よくわかっていませんでした。
今思えばものすごい苦労やプレッシャーがあったと思います。
そしてまた完走して泣いていたのを見て、どんな気持ちなんだろうとか
どんな景色を見ていたんだろうとか、ライダーの感じたものをすべて
知りたくなりました。
ただこればっかりは実際自分で走らなければわからないし
出場も難しく、夢は夢だったなあと思うだけでした。
その後、2005年の初頭に鈴鹿サーキットのサイトで
鈴鹿ミニモト4時間耐久ロードレース開催 の記事を見ました。
鈴鹿のフルコースで行われライトオンチェッカーまであるというもので、これなら自分にも出来るんじゃないのか? と思いました。
この頃、ライトオン走行のある2輪レースは8耐のみで
バイクは違うけど正に自分が出たかったレースでした。
しかしまだ確実に開催決定じゃないだろうしどんなレースかもわからないし、なによりバイクも何もない と一旦忘れることにしました。
それから半年が過ぎてレース開催日、午後3時のスタートが迫るにつれてソワソワし始めました。
鈴鹿まで家から1時間、5時半までに家を出ればゴールは見られる・・・ と思い、行こうかどうか悩みましたが午後5時になって家を飛び出しました。
鈴鹿へ行く道中ほんとにレースやってるのか とか思っていました。
(ここまでレースに関する情報を見ていませんでしたので)
鈴鹿について遊園地のゲートから最終コーナーへ行くと・・・
走ってた。
確かに走っていました。
この人たちは今年のレース発表があってから準備を始めここを目指してきたんだな・・・ と。
色んなバイクが走っていました。
12インチ、17インチ、2スト4ストえらい速いのからそうでないのまで。
そしてゴールの時間メインスタンドへ行くと、バイクはちっちゃいけど確かに鈴鹿の耐久がそこにありました。
このレースに出よう と思ったのですが、考えてみたら
色々問題がありました。
バイクはどうなってるのか。
車種も車両レギュレーションも何も知りません。
それまでミニバイクは全く関心がなかったので何も知識がありません。
つなぎやヘルメットは?
もうヘルメットは古くてダメだしつなぎもきつい・・・
鈴鹿サーキットやMFJライセンスも再度取得が必要です。
ほとんど一からの準備が必要でした。
そして何より またレースにはまってしまう という恐怖が。
これが悩んだ一番の原因だったと思います。
色々悩みながら1年が過ぎ、2006年のレース開催日になりました。
STクラスとオープンクラスを見ておこうと、2日連続で鈴鹿へ
行きました。
心の中ではあまりお金のかからないSTクラスにしようかな、と思っていましたがオープンのカッコよさはやはり魅力でした。
そしてレースを見ながら 来年の今頃は必ずコース上にいる! と心に決めました。
レースが終わった翌日、ヤフオクにZを出品しました。
この日のために持ち続けていたような。
でも新たな目標のための売却だったので惜しいという気持ちはありませんでした。
その他ストックしていたZのパーツやらなんやら売りまくり、どうにか
レース資金を作りました。
最初は鈴鹿のお店で RCV‐mini をオーダーしようと思いましたが、
前年に北米でホンダNSF100が販売されていて日本でも販売が始まりました。
もうこれで決まりました。
NSFクラスが出来るという噂もありましたし(ほんとに噂だけでした)、オープンクラスでいこうと。
なによりエイプとかモタードでレースということに個人的に抵抗があり、サーキットはやはりレーサータイプでないと( ̄ー ̄;
そんなこんなで2006年決勝が終わって1ヵ月後にはNSF100が納車されていました。
そこからエンジン・足回りその他、本やネットを頼りに情報を仕入れて改造しまくり、一応のオープン車両が完成しました。
ライセンスは鈴鹿のは更新切れからずいぶん経っていましたが、年会費だけで更新可能でした。
(昔は未更新料金が毎年積算されていったのに)
レーシングスクールも受けなくて済みました。
MFJライセンスもたまたま6年前に更新していたので、国内ライセンスで継続できました。
車両製作・ライセンス代・ツナギ・ヘルメットその他もろもろでけっこう
掛かりました。
これでも車両制作費は抑えに抑えました。
ヤフオクや安いネットショップ駆使です。
しかし一番悩んだのがライダーで、周りにはバイクには乗るけど
サーキットを走れる人がいませんでした。
後年一緒に走ることになる友人は、すでに他のチームからSTクラスに出ていて誘うわけにもいかず。
(よく考えたら誘えたのに)
バイクがあっても乗ってくれる人がいなければレースに出られない。
本気でどうしようと悩みました。
でも昔の知り合いに手紙を出したり、色々当ってようやく走れる人を2人見つけました。
レースで走れる人を見つけるのはほんとに大変でした。
今ならそんなこともないんですが。
みんなで楽しむ、というより自分の目的のために走りたいレースだったので手伝ってくれる人には負担させたくなく、
毎晩毎晩バイクを自分で整備して、バイク代・パーツ代
エントリーフィーなんかも全部自分持ちで行こうと思いましたが
一緒に走る人たちに援助してもらえて大変助かりました。
色々大変でしたがやっとの思いで2007年9月1日オープンクラスで
予選出走に至りました。
あれからもう10年経ちました。
2007年から2013年まで本当に色々ありながらエントリーし続け
もしオープンクラスが終わっていなければまだ走っていたと思います。
H19.2.18 初エンジンが組み上がった日です


