今、感情と理性のレッスンを行っています。

理性が強くなり過ぎて、
欲がなくなり過ぎ、生きる気力や今生で過ごすことの執着を捨て過ぎ、
行き着いた先は、思考の停止でした。

欲というものがあってこそ得られるものがあり、欲があるからこそ苦しむものもあります。

なので、いかに欲を捨てられるかという事がよく取り沙汰されます。

しかしながら、この喜びも悲しみも経験する価値があるものだとするならば、2倍の経験を体験せずに人生を過ごしていることにもなりますね。

穏やかな人生というものだけが、人生ではありません。

熱く激しく漲りほとばしる生命の瞬き、それも人生です。

そう思い、せっかくこの世に生まれたのだから、それが経験できないのも勿体無いと思いたち、感情を学ぶことにしました。

感情というものの学びを深めた結果得たものは、感情の開放という喜びででしたが、感情という暴れ馬を制御できなくなるというオマケ付きでした。

人は楽をしたいものですよね。
ただ楽を楽しめればいいですが、溺れていってしまえば、行き着く先はただの怠惰。

けれども、私の中に根深く張る、こうであるべきという自分を厳しく制限する自分が、それについて深く自分を責め立てるという行為を行った結果、縮こまり膝を抱え家から出ずに何もせずにここにいたい、ここにいさえすれば大丈夫、
という内向きな心の様相を作ったともいえます。

こういった感情や思いというものの処理は時間がかかり、
より現実の「行い」というものから自分を遠ざけてしまいます。

結局は、理性とは、母の愛、父の愛のように、子どものような感情を理解してあげながら、本人が一番やりたくなるように行為を促すことなのだと思います。


人は子どもの頃の経験で作られます。
子どもの時に覚えた喜びは、生涯忘れることはなく、また子どもの頃の嫌な記憶は生涯思い出します。
大人になって再びあの喜びを体験したくて行動し、再びあの嫌な想いをしたくなくて避けるように行動します。

つまり、子どもの頃に何を経験するかで今の自分が決まるということです。

そうであるならば、
もし今の自分がどんなに嫌いでも、決して変えられないという事になってしまいます。

つまり、今を最高のものにしようとするならば、
「今」という時間に、
自分が、自分に、
いかに楽しく嬉しく喜ばしい体験をさせてあげられるか、
というのが、この先の未来にいる自分を形作ることになります。

「行為こそが、全ての結果なのである。」

大人になった今、そんなのはもう遅いと思いますか?
そんなことはありませんよね。
人はみな、死ぬまで学び続ける子どもです。

思い悩むのも人生

何も考えず楽しむのも人生

人はいつか死ぬ。

「いつ死んでもいい」というのは、
決して生きる事を諦めてるという事ではありません。

いつ死んでも良いくらい、
今を最高に生きている。

今が喜びの頂点である。

という状態が、生きる状態であると思うのです。

いつ死ぬかなど誰にもわかりません。

ならば、この最高の喜びというものを、経験しに行こうじゃないですか。


自分に勝ち、


人生に勝ち、


雄叫びをあげる。


ここが頂点!


私は頂点に立った!!


という最高の喜びを味わいに行こうじゃないですか。


知っていますか?



人生に不可能はありません。

大抵のことは叶います。

いつだって逃げるのは自分。



感情と理性を総動員して、未来を目指しましょう。


人はみな、必ずなりたい自分になれます。


不可能は、ありません。



不可能は、ありません。