私にとって、宗教は信仰ではない。
宗教は、習慣であって、生活である。
だから、神は、私が暮らす場所、年齢によって、変貌していく。
多神教が絶対にいいとは思わないが、
一神教の脆い所を感ずるが故に、信じきる事ができない。

私はこう思う。
神の言葉を判断するのは、人間なのだ。
判断を委ねられたのは、個々の人間の本質。
だからこそ、不完全な人間が、完全なる神の言葉を、完全に理解できるわけが無い。
神の言葉に絶対を求めるならば、
神の言葉として記したその言葉自体も、
人間の言葉に過ぎないのではないかと、思ってしまう。

私は仏教徒だ。たぶん。
お墓が仏堂にあり、母が眠っているので、とても大切にしようという気持ちがある。
だから、仏教徒だと思う。

仏教には、小乗仏教と大乗仏教がある。
簡単に言うと、
小乗仏教は、自分の幸せを考える仏教で、
大乗仏教は、みんなの幸せを考える仏教。

私は、神に救いを求めるのではなく、
ひとりひとりが自分を救おうと努力する小乗仏教の方が好きだ。
大乗仏教は、神という奇跡を信じているにすぎないと、感じてしまう。
自らが自らを救わずして、誰が救うのだ?
神は、助言や奇跡を起こすかもしれないが、
結局、行動して人間社会で実現していくのは、自分自身の力だ。

自分を動かす力は、どこからくるのだろう?
そんな、生きる意味を考えたりするのは、地球上では本当に人間だけなのだろうか?

人は死ぬ。
だから、死ぬまで、時間がある。
時間があると、考える時間がある。
考えることといえば?

生きること。

生きることってなんだ?って思うかもしれない。
けど、子供の頃、それは、とっても単純だった。
生きるとは、親に愛されること。友達に好かれること。
そして、遊ぶこと。

つまり、何にも考えてなかった。
過ぎる時間の量なんて考えなかった。

なんだか、幸せな子供だったように思われるかもしれないが、
親には相手にされなかったし、兄弟喧嘩は殴り合いだったし、
友達は少なくて、相手にされないのが怖くて、深く付き合ったりできなかった。
それに、いじめられたりもしたし、友達に大怪我させてひきこもりもした。
残念なことが、山のようにおきていた。

相手にされないって事が、どんなに辛いことか。
大人になった今も、その時を思い出すと、胃が痛くなって死にたい気分になる。

私は、自分というものを持つのに、しばらくかかった。

そもそも自分というものが無いことに気づいたのは、大学受験を考える段になってからだ。
ようやく、小学校の時の幸福否定宣言を破ってみようかと考えられるようになっていた。
結果、一浪して行きたかった大学に入った。

入ったはいいが、自分が無かった私は、必死に大学生のフリをした。
したい事を実行する自分が無かったから、結局、頑張って頑張って、色々やって、
最終的に、就職を考えなくてはいけなくなった時、
他人の人生を眺めている気分になったまま就職活動をした結果、
就職先は決まらなかった。

意味が無い。

大学院の進学も考えたとき、出てきた言葉が、
「意味が無い」だった。

就職か大学院かでなく、何を自分はしていくのか、自分というものをどうすれば作れるのか、
自分をどうすれば信用できるのか、自信を持つという意味をどう信じられるのか。

その時、やってみたいことはあったけど、それをやる意味を私は持てなかった。
意味とは、「自己実現」のこと。

自分を持っていなかった自分に、自己実現を求める気持ちがなかった。

有名になりたい、とか、もてたい、とか、人から感謝されたい、とか、
人に自分を伝えたい、とか、人に理解されたい、とか、
なぜ、そんな風に単純な気持ちを動機にもてなかったんだろう。

今、本当にそう思う。
自分というものを見つけた今、本当にそう思う。

なぜ、私はあの時、大学院の道を選ばなかったんだろうと思う。
私は結局、学ぶことが好きで、
ただ新しいものを探求することが好きなんだと、あの時気づいていたらと思う。

今なら、友達に好かれなかった理由も分かる。
探究心を強く持ちすぎる人間は、感情を置き去りにして、興味津々に観察をしてしまう。
知りたいという自分の欲求を満たすためだけに話しかけてくる人間を、
自分だって、信じることはできない。

でも、幼稚園児や小学生に、その判断は難しいと、自分を擁護したい。
だから、傷ついた結果、中学高校を棒に振り、大学で考え始め、社会に出て気づいたとしても、
自分を見つけるのが遅すぎたとは、思わない。

自分を探す度に、社会と切れそうになったり、親への怒りを感じたり、
とても理不尽で、悲しいことが自分の心に巻き起こり、どうしようもなかった。
でも、それが許される環境にあることすら、親への怒りになった。

自分勝手だけど、その自分勝手な想いの力を、
自己実現というパワーに変えようとは考えられなかった。


ようやく気づいた、今こそが、スタートライン。


私は、自分が、とても傲慢で勝手な人間なのだと、認めることから、自分を創っていく。
認めるしかない。
私は、聖人君子に憧れて、結局なれない性根の持ち主なのだと、認めるしかない。
社会貢献とか、思いやりとか、できる人間に憧れていたけれど、
それをする前に、自分を満足させなければ、
私の意地汚い根性は、そこまで考える事ができないんだと、分かった。

自分は謂わば、未来とは繋がらないミーム。

そう自覚するのは、とても悲しい。
子供をつくり、未来へ繋いでいく。
受け継いだ自分の知を未来へ伝えていく。
それは、とても神々しくて、素晴らしい仕事だ。

でも、私は、憧れはしても、それができない人間なのだ。

小学生の頃、
我が強すぎる私は、母から、鬼の子だと言われた。

今ならその意味が分かる。

単純に、自分の母親から、自分の子ではなく、鬼から生まれた別物だと言われた事に、子供の頃は深く傷ついたけれど、母の真意は、もっと別にあったんじゃないかと思う。

人になれ、と。

そう言いたかったんじゃないだろうか。

当たり前の幸せというものを、母は死ぬ間際に語った。

人間の幸せは、結婚して、子供を生んでこそ、と。

そのときは、まったく理解できなかった。
その時の私は、山の中に暮らす鬼そのものだったからだ。

いまは、ようやく人里に暮らす鬼にまでなった気がする。
ようやく。
ようやく・・・。

人になるには、人と交わるしかない。
社会の中で、苦しみながら、吸収するしかない。

人になるということは、別に自分を偽って暮らすということではない。
自分の鬼の部分を肯定してあげられるようになることなんだ。

肯定できるようになれば、鬼をコントロールして、
鬼が実現したいと願う自己というものを、人の部分の自分が実現できるようになる。

動機を、強く心に押し殺していたから、私には行動する気力がなかったんだと、
今は思う。

鬼を受け入れろ。
そして、行動を起こせ。

ただ「知りたい」
ただ「やってみたい」

それだけで、動機は十分なんだ。

予測する前に、行動に移す。
その方が、冒険はスリリングだ。
そのスリルに耐えられるか。
それこそ、自分に感じるままに行動する快感となって、自分を解放させてくれる瞬間となる。

悩み考え続けていた間、時間は、だくだくと、私の足元に垂れ流された。
思えば、小学5年生のあの時から始まった思考の旅は、
ようやく転機を迎えたんだと、感慨深く思う。

何十年もの時を経て、後悔していないかと言えば、嘘になる。
けれど、それを考えすぎると、怖くなる。

時間は、可能性を消す。
若ければできた事が、今は簡単にはできない。そんな事柄が、いっぱいある。

年をくってからできること、それは何だ?
皆目わからない。

普通に人生を歩んできた人ならば、
積み上げた財産や信頼、信用、そして友達が、自分の堅固な礎となり、
新しい可能性を探すことが可能だろう。

でも、私にはそれがない。
だから、怖くなる。

同じ年に生まれた人たちより、何十年も遅れているという事実は、
現実の問題として、とても厳しいものだ。
私が、孤独に強いわけでも、貧乏に耐える事に苦痛を感じないわけでもない。
そして、人からの信頼を勝ち得ることに憧れないわけでもないから。

それに、もがいていた自分を見ている今の会社の人間や学校の人間が、消えてなくなるわけでもない。
例え恥ずかしいという気持ちを持っていても、逃げることは許されない。

成功を思い込む力を、これからつけなければいけない。
普通は、小さい頃からすべきだったのかもしれないが、
それを私は大人になるまで持たなかった。
だから、今からやるしかない。

私の第一歩。
それが、私を導く。

誰も私を救わない。
誰も私を救えない。

誰か私を助けてと、叫ぶことはできても、
私を導くのは、私の行動だけ。

何も考えず、感じること。

楽しいか、楽しくないか。

自分を信じること。

自分は自分を救えると。導けると。