赤誠風雅の志士 平野二郎國臣 12
第九章 眞木和泉守(まきいずみのかみ)との出會ひ 1
しかし、この櫻田門外(さくらだもんがい)の變により幕府の探索は益々巖しくなり、國臣は當然(とうぜん)関与者と見なされ、徳川幕府の壓力(あつりよく)もあり黒田藩が危険人物として手配捕縛(ほばく)しやうと躍起になつたのです。
この爲、國臣は薩摩に難を逃れんと決し、先づは肥後に行き松村大成(まつむらたいせい)宅へ潜居します。
この潜居中に最も特筆すべき事として、眞木和泉守(まきいずみのかみ)と出會ひがあります。
松村大成(まつむらたいせい)は、國臣(くにおみ)の英傑なるを見抜き、二人が出會つたなら必ずこの日本が動くに違ひないと考へ二人を會はせんと國臣に眞木和泉(まきいずみ)の話をしたといひます。
ここで松村大成(まつむらたいせい)について少し触れておきませう。
松村大成(まつむらたいせい)は、肥後熊本の玉名郡(たまなぐん)安楽寺村(あんらくじむら)(現熊本県玉名市)出身の勤王の活動家です。
松村家は代々安楽寺で医業を營む家柄であり、家政豊かで、村人の尊崇を聚(あつ)めてゐました。
大成と弟の永鳥三平(ながとりさんぺい)は、神道に重きを置く(*1)林櫻園(はやしおうえん)のもとで國學を學び、次第に勤皇思想を深めていきました。
そして、宮部鼎蔵(みやべていぞう)などと肥後勤皇党で尊皇攘夷(そんのうじようい)活動に勤しんだのです。
國臣は、熊本に來るたびにこの大成宅を訪れ、ここを拠点に動いて居ます。
そして、萬延(ばんえん)元年九月二十六日、國臣は松村大成の長男深蔵(しんぞう)と共に久留米の眞木和泉(まきいずみ)の蟄居先(ちつきよさき)水田村(みずたむら)(現筑後市水田区)にあつた山梔窩(くちなしのや)を訪ねたのでした。
上記寫眞は眞木和泉の蟄居先「山梔窩(くちなしのや)」
*現在は久留米水天宮に復元されています。
しかし、この時眞木和泉守(まきいずみのかみ)は、九年間の幽居生活の傍(かたはら)ら、私塾を開き久留米藩の若者に尊皇の大義と皇政(おうせい)の恢復(かいふく)の理を講じ、且つ講究してゐます。
山梔窩(くちなしのや)を訪ねた國臣でしたが、眞木和泉(まきいずみ)は、固(もと)より志は社稷(しやしよく)にあるものの、幽囚の身であるが故に會おうとはしませんでした。
そこで國臣は一首の和歌を示して面會を請ふのでした。
四(よつ)の緒(お)を古き調べの音(おと)にめでて
きこえまほしくかねてしのびつ
*四の緒;琵琶(びわ)のこと。
*きこえまほしく;聴かせて欲しくて。
*かねてしのびつ;かねてから願つてゐました。
眞木和泉(まきいずみ)が、音曲を好み、能く琵琶(びわ)を弾ずる事を松本大成より聞いて、それに託して皇政(おうせい)復古(ふつこ)の業を共に語りたいといふ意を籠めての歌になります。
これに對して、眞木和泉(まきいずみ)はやはり、會ふ事を遠慮して和歌を以て返します。
眞木和泉の和歌
世の中はひきみだされて四(よつ)の緒(お)の
いとをも今は調べあはなくに
《歌意》
今の世の中に亂されてしまつて私の琵琶(びわ)の調べはあはず聞かせる事ができません。
今の私は殘念であるがとても調べを奏でられる身ではない。
このやうに断りの和歌を返したのでした。
しかし、國臣は諦めることなく面會を強く求めその熱意に動かされた眞木和泉(まきいずみ)が根負けして山梔窩(くちなしのや)にて初めて會ふこととなつたのです。
二人は互の懐ひを語り合ひ、談論活溌に大いに奮ひ理解しあつたのです。
この時の眞木の日記には國臣(くにおみ)の事を次のやうに評したといひます。
「國臣を以て戀闕(れんけつ)第一等の人也。」
これより、二人は深く交り、皇政(おうせい)復古(ふつこ)の事業實現を共に圖(はか)り行動してゆきます。
(次回に續く)
*1 林櫻園
林櫻園は寛政十年(1798)明治三年(1870)没の國學者で,名を「有通」,号が「櫻園」です。
本居宣長の流れを組む國學者「長瀬雅之」に入門,國學と神道を學びます 特に教育者としての活躍に目を見張るものがあり,私塾「原道(げんどう)館」を開き,敬神・尊皇を説いて子弟の教育にあたります。その門人の数は千二百人とも千四百人ともいい,肥後勤皇党の宮部鼎蔵(みやべていぞう),實學党の横井小楠といつた幕末の熊本の3党派を代表する人物のほか,久留米の真木和泉,長州の大村益次郎等々に大きな影響を与えてゐます。

