2022年のゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館)は回顧展と言うには偏りがあり、2000年代以降の作品が充実していた。
●フォトペインティング
リヒター財団の作品はリヒターが手元に置いていたもの。だからなのか、家族を描いた絵画が4つもある。
「モーリッツ」(2000,2001,2019)。2000年に描いた時点で、息子モーリッツは5歳だった。ということは5歳の息子がいる横で赤ちゃんの頃の写真を見ながら描いていたことになる。しかも2001年、2019年に加筆している。何か食べ物がついたように茶色いものが口の周りから服についている。コップは上に・斜めに線が広がる。このへんが加筆されたもののようだ。(下記公式ページの画像は加筆前のようで、ちょっと違う)。この絵はあまりぼけていなくてわりとくっきりしている。
「エラ」(2007)。娘を描く。60年代のフォトペインティング同様、細かい線で横にぼかしていて、水に写った顔のようにも見える。
●「ビルケナウ」(2014)
展覧会の中心的作品は「ビルケナウ」(2014)。4点の大きなアブストラクトペインティング。上下・左右にひきずったような黒・白を基調とし、赤・緑がところどころに見られる。
作品の傍らに4枚の白黒写真が展示されている。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所で、死体の処理を担当したユダヤ人(彼らも後に殺される)がこっそり撮ったもので、よく見ると、死体らしきものが積みあがっているのや、裸の人たちが歩かされているのが見える。ドイツ人のリヒターはホロコーストを作品にすることを長年の課題としていたが描けずにいた。(1932年生まれのリヒターはナチス政権下に子供時代を過ごしている)。ついにリヒターはこの4枚の写真を拡大してペインティングとして描くことを試みる。しかし、元の写真以上のものになっていないと判断し、絵画の上に絵の具を重ねて、元の画像を塗り込めた抽象画として作品化した。
リヒターがほとんどの抽象画に「アブストラクト・ペインティング」というタイトルをつけるのに対して、この作品には「ビルケナウ」と名付けた。ビルケナウは収容所の名前であるが、ドイツ語で「白樺の谷」を意味するという。そういわれると、白と黒が白樺の林を表しているように思えなくもない。赤い血を覆いつくす灰の色にも見える。よく見えると肌色も見つけられる。フォトペインティングを塗りつぶしたとき、まず肌色で塗ってから赤・緑・白・黒を載せているという。その肌色がごく一部だけ残っているようだ。
リヒターのアブストラクト・ペインティングは、色を重ねたりスキージで引きずったり色の層をはいだり、でできる、表情豊かな細部が面白い。ビルケナウも同様で、色がぼけて流れたように見える上に、斑点のように黒と赤が浮かぶ、のようなイメージが美しい。元の写真は塗りこめられて見えないことは知っているが、細部を眺めていると(偶然にできた形の中に)群衆とか何かイメージのようなものが時々見えるような気がする。
「ビルケナウ」の展示は、「ビルケナウ」の4点の油彩を一つの壁に並べ、対面する壁には同じ「ビルケナウ」の原寸大写真コピーが並ぶ。この写真エディションは「ビルケナウ」が最初に展示されたときから毎回一緒に展示されているもの。原寸大の写真は、本物の前では輝きがない。写真コピーのほうは一つのペインティングが4枚の紙に分かれているため、その境界に白い十字の線が入る。本物と同じ空間にあえてコピーを展示する意図は何だろう? 下地に別の絵があるという経緯があることで絵画が特別のものに見える、ではその表面を映した写真は?
そしてもう一つの壁には、大きな鏡。これも4枚の鏡からなっている。ここに展示するからには意味があるはずだが、これも分からない。
「ビルケナウ」で長年描きたかった主題をやりとげたリヒターは、自由に楽しく絵を描こう、という気分になり、カラフルな新作を作るようになった。(ビルケナウを描くまでの数年間は、油彩を描くのをやめていた)。今回の展覧会には、この時期の(2016-2017年)の油彩が多数展示されている。
●アブストラクト・ペインティング(ビルケナウ以後)
リヒターは2014年(82歳のとき)に「ビルケナウ」で長年描きたかった主題をやりとげ、自由に楽しく絵を描こう、という気分になり、カラフルな新作を作るようになった。(ビルケナウを描くまでの数年間は、油彩を描くのをやめていた)。今回の展覧会には、この時期の(2016-2017年)の油彩が多数展示されている。
過去の作品に増して、色が鮮やかになっている。
ドキュメンタリー映画"Painting"(2011年)に、アブストラクト・ペインティングの制作風景が描かれている。カラフルな絵を一度描いたうえで、グレーで塗りつぶし、スキージ(大きな板)で引きずって下地の色を浮き出させたり、スキージに絵の具を塗って引きずることで描いたり、さらにはその上から筆で描いたり、という描き方をしていた。
大きなスキージを絵に押し付けるので、どういう絵にするかリヒターにもコントロールできない
2016-17年の作品も、そのような描き方をしているものと思われる。
過去のアブストラクトではカラフルな絵をグレーで塗りこめて、グレーが基調の絵になることが多かった気がするが、近作はグレーにならず緑や赤の原色を使った、カラフルな絵が多い。
リヒターは抽象画に空間を構築するのをなぜか嫌っていて、スキージで偶然に任せることでそれを避けていたはずだが、ビルケナウ以後の絵画ではそんな制約も外して、明らかに空間を作っているように見える。自由に楽しく描いている感じがする。
自分としてはこれら近年の作品が、この展覧会で一番好きだった。
特に良いと思った2点。一つは、風景のような空間が見える。(そんなことないはずだが)、手前に水面、その奥に森、遠くに夕焼けの光、のように見える。
「アブストラクト・ペインティング」(2016)
「アブストラクト・ペインティング」(2017)
もう一つ、解説によれば「最後の油彩」だという。これも空間が見える気がする。右に赤い人物、中央に大きく赤い牛、やはり水面で、中景には木の枝。風景のはずないabstruct paintingだが、じっくり見ていると何か見えてくる気がする。
「ヨシュア」(2016)
近づいたり離れたりでも印象が変わるが、細部は場所ごとにも絵画ごとにも様々な表情があって飽きない。様々な描き方による色が複雑に重なりあっている。この色の重なりが気持ち良い。
前から思っていることだが、リヒターの抽象画は見ていて楽しい。(抽象画を良いと思うことは普段めったにないのだが)。
「アブストラクト・ペインティング」(2017)
「アブストラクト・ペインティング」(2016)
「アブストラクト・ペインティング」(2017)
やや小さめの作品。これも2017年。森の中に十字架がある、表現主義風の絵に見えなくもない。
2015年にWAKO WORKS OF ARTで"ゲルハルト・リヒター Painting"を見たが、これが実は、ビルケナウを終えてようやく描けるようになった久々の油彩画を、世界初公開するという展示だった。なぜそんな重要な展示が日本でだったのかわからない。当時の自分には、今までの抽象画と何が違うのか理解できていないしが、見ごたえがあって楽しかったのは覚えている。
●ストリップ
「ストリップ」(2013-2016)
自身のある1点のアブストラクト・ペインティングの画像から、ある処理を行ったうえでデジタル出力する。ということで、これは油彩ではない。(こんな周期的な縞が油彩で描けるわけない)。80歳を過ぎて今までと全く違うタイプの作品を生み出すというのがすごい。
微細な色の帯が10mの長さに広がるという圧倒的なイメージ。カラーチャートと違って、明らかにランダムではない。同じような色が固まっていたりする。
ストリップのシリーズは全て、1点の絵画をもとにしている。1990年の「アブストラクト・ペインティング」(724-4)。この時代の標準的なリヒターのアブストラクト作品と思う。ストリップに先んじて2008年に、リヒターはこの絵画をもとに、絵画をぼやぼやに撮った写真作品を制作している。2009年には絵画(またはその一部)を上下左右に折り返してつなげた画像をもとに5種類のタペストリー作品を作っている。
画像を分割してつなげるという処理から、ストリップが生まれた。もとのアブストラクト・ペインティング(724-4)は92cm×126cmだが、これを横方向に4分割し、断片(23cm×126cm)のひとつを横方向に反転しながら繰り返しつなげていく。横方向に模様が繰り返さた画像ができる。これを、横幅を小さくして行う。最終的には横方向に4096(=2^12)分割し、0.3mmの縦長の画像を作る。0.3mm幅では一様と見なせるため、これを反転して横方向に連ねると、横縞の画像ができる。(言葉で説明しても分かりづらいが下記動画を見ると分かる)。
機械的な処理だ。(pythonとかで簡単に自分でもできそう)。これにより1点の油彩から原理的には4096種類の画像が作れる。2011-2013年に100点以上のストリップが作られた。
https://www.gerhard-richter.com/en/videos/editions/gerhard-richter-patterns-editions-cr-149-115
●ガラス
ただのガラス板を作品として展示するのを、リヒターは1960年台からやっている。
絵画と同列に、唐突にガラス板や鏡が展示されている。
今回、展示室全体の中心に置かれたのが、「8枚のガラス」。このガラスを通して正面にアブストラクト、左にカラーチャート、右にストリップが見える。8枚のガラスを通して見ると、ストリップが分割されて回転してつながって見える。
ガラス群は1枚目と2枚目の反射像が見えて自分が二人に見える。鏡が傾いているため、変な感じに部屋が映る。
ガラスとミラーの中間の作品として、ガラスに裏から色を塗ってガラスの反射が見えるようにした作品がある。
「黒、赤、金」(1999)。ドイツ国旗の3色の色ガラスに、やんわり周りの様子が映りこむ。これを巨大化したものが、ベルリンの国会議事堂に設置されている。国会議事堂用の作品を依頼されたリヒターは、ビルケナウのイメージを使うことを試みたがあきらめて、高さ20mの黒、赤、金の色ガラスの作品を設置した。