エイドリアン・ゲニー(Adrian Ghenie)は1977年にポーランドに生まれる。当時のポーランドは共産主義体制のもと、チャウシェスク大統領による独裁国家だった。1989年に民衆が蜂起し政権が崩壊、直後にチャウシェスクは死刑に処された。2006年に、自分が設立に携わったルーマニアのギャラリーで、初めて作品を発表した。2008年頃から注目され、2016年には"Nickelodeon"が900万ドルで落札された。

●2000年代の作品

・"Pie Fight Study 4"(2008)



 コートを着た男性が顔を押さえている。絵の具の層が上から塗られ、顔が消されている。
 タイトルはPie Fight(パイ投げ)。1930年代の映画で人気を博したThe Three Stooges(1960年代に日本でも三ばか大将としてテレビ番組が放送された)というコメディアンの画像が元になっている。ドタバタコメディのパイ投げがもとになっているということだが、暴力的な暗い場面に見える。

・"Pie Fight Interior 8"(2012)


 Pie Fightのシリーズは暗い背景の半身の肖像画が多いが、顔を消された人物を部屋の中に配した"Pie Fight Interior"のシリーズも描かれた。

・"Untitled"(2012)

 


 顔を塗りつぶして消す描き方はゲニーの特徴で、後にヒトラーやダーウィン、ゴッホの顔を塗りつぶした肖像が描かれた。

・"Nickelodeon"(2008)



 木造の倉庫のような建物の中、暗い空間に8人の人物が立つ。コートを着て静かに立つ人たち。フラッシュを浴びたように顔が明るく照らされている。タイトルのニコロデオンは、(子供向けアニメチャンネルの名前にも使われているが)20世紀初頭のアメリカにあった安くて気軽な映画館のこと。(Nickele(5セント硬貨)+odeon(劇場))。しかしこの絵の人物は、気軽な映画館に並んでいる人たちには見えない。何かもっと暗い・不穏なものが感じられる。
 Pie Fightと同様に絵の具の層を載せられて、彼らの顔は消されている。

 



●"Recent Paintings" at Pace Gallery (2017年の個展)

 

 

・"Rest During the Flight Into Egypt" (エジプトへの逃避途上の休息)(2016)


 エジプトへの逃避途上の休息は古くからの画題で、ヘロデ王から逃れて移動する聖家族の姿を描く。森の中でキリストを抱いて休息する聖母マリアとヨセフ、という姿で描かれる。
 しかしGhenieの作品では、迫害される聖母子が、故郷の危険から逃れる難民の家族の姿に置き換えられている。若い男性と子供が、線路の脇で座り込んでいる。どちらも顔は(過去のGhenieの作品にもよくあるように)抽象的な形が重ねられている。しか彼らの身体は写実的に描かれていて、(これもGhenieの作品によく出てくるが)青年の吐くナイキのシューズが目立っている。
 具象画だが不思議な空間になっていて、線路の向こうには赤い山が見えるが、その上の青い帯は水面に見える。水面の向こうに赤い岩肌が見える。


"Crossing the Sea of Reeds"(2016)
 この絵も、海を渡ってヨーロッパを目指す難民を思わせる。
 画面いっぱいに黒い海面が描かれる。少ない筆致で大胆に描かれた魚やカモメが美しい。中心にある黄色い輪は、海面を漂う人間が付けているライフジャケットだろうか。


"The Alpine Retreat"(2016)(高山の隠れ家)

 

 

 建物のテラスでくつろぐ男性と犬。背景に見える山の景色は、青空のもと、赤と白の縞模様という独特の描かれ方をしている。
この建物はベルクホーフ(ドイツ南部にあったヒトラーの別荘)の写真をもとにしている。



●"Brave New World" at Pace Gallery

 

 

 2023年、Pace Gallery(ニューヨーク)での個展。
 従来とはだいぶ画風が変わったようだ。

 



・"Untitled"(2023)

 

 

 これはSNSなどで写真を見た有名な場面なので、何が描いてあるか分かりやすい。

 2022年、環境活動団体による名画への襲撃が相次いだ。気候変動問題に目を向けさせるため、活動家の二人の女性がゴッホの「ひまわり」にスープを投げつけて汚し、こちらを向いたポーズで写真に収まる。(2人は手を壁に接着している)。環境保護のために犯罪が許されるのか、環境と名画は関係ない、通常の手段では世間の注目を集められないので仕方ない(保護ガラスにより名画自体が汚れないのは分かってやっている)と議論になった。
 Ghenieの絵画では、その写真が忠実に描かれている。ゴッホのひまわりはオレンジの絵の具で塗りつぶされている(Ghenieは過去作品でゴッホの自画像を絵の具の筆致で覆い隠している)。Just Stop Oilと書いたTシャツの二人がスープ缶を持ち、片手を壁に付けてポーズをとっている。しかし2人の顔は、大きなマスクのような、渦巻き模様のようなものに覆われている。

・"The Spanish Room"(2023)_

 

 

 これも美術館の光景。ベラスケスの名画の前のソファ。別々の方向を向いて座る2人の人物。せっかくの名画の前で、2人は絵を見ないでスマホをいじっている。2人は怪物のように描かれ、壁の絵画の人物は顔がつぶされている。壁の模様や背景は丁寧に描かれている。

 この個展では、人間の身体とテクノロジー(デジタルデバイス)の進化の関係をテーマとしている。スマホの画面を見る怪物のような人物が繰り返し描かれる。
 ゲニーはスマホなどのデジタルデバイスを、個人を世界全体から切り離し、不安で孤立した状態を悪化させるものと考えている。

 個展のタイトルはハクスリーの小説「the Brave New World」(すばらし新世界)(1932)から。この小説は、機械文明が発達した先のディストピアを描く。

・"The App 2"(2023)

 巨大な手が画面いっぱいに広がっていて、手ではない何かに見える。よく見ると指がスマホの画面をいじっている。手に比べるとスマホがずいぶん小さい。

・"the Hotel Room"(2023)

 

 ホテルの一室、開いたままのスーツケースの傍らで、男性が立ち尽くし、壁のテレビを見ている。テレビに映っているのはトランプ元大統領のようだ。男性のプライベートな空間を侵食するように、テレビ画面からは水色の空気の流れが男に向けて伸びている。男はトランプに共感してテレビを見つめているのかもしれない。男は手と足以外の部分はどうなっているかよくわからない(体の内部が見えているようにも見える)が、やっぱり怪物のような描き方だ。

・"Untitled"

 

 これも環境活動家が絵画を汚した場面。ゴッホの種まく人が黄色いもので汚れている。絵画の前で3人がポーズを取っている。

・"Study for Impossible Body 8"

 習作は以前のようなコラージュではなく、木炭によるドローイング。描いたものを消しては描きしている。

 

つづく