大阪は天王寺の一心寺

年に何回も訪れるヘビロテスポットですが、ブログには書いた事がないですが、大阪夏の陣400年と云う事で書いて見ますあせる

が、そんな私も全く知らなかったモノが…

霧降の松





一心寺の北門を入って左手すぐにある大きな松の幹

大坂夏の陣で徳川家康公が真田幸村公に追い詰められた時、霧を吹いて窮地を救ったと云う伝説がありますビックリマーク

一心寺は家康公との繋がりの深いお寺です

徳川仙千代の墓


1600年2月7日、家康公の八男の仙千代君が夭折し、一心寺で葬儀が営まれます

導師を努めたのが、同郷の三河の僧で時の住職
本誉存牟上人でした



正式名称は「坂松山高岳院一心寺」

高岳院は仙千代君の法名「高岳院殿華窓林陽大居士」から

坂松山の謂れは摂津名所図会に書かれています

一心寺の山内の古松に家康公が馬を繋ぎ(駒繋ぎの松)、千歳の貞松と祝し、この辺りの地名 相坂(現在の逢坂)と呼ぶので、板面に坂松山の扁額を賜るとあります

この駒繋ぎの松は未詳ですが、一心寺は昭和20年の大阪大空襲で伽藍の殆んどを消失していますので、同時に消失してしまったのかもしれません







加古川城を築城した糟屋有教の2代前の糟屋有季は、源義経に属して宇治川の戦いに参戦

その後の平氏追討戦にも従ったようで、その功により加古郡雁南庄を与えられたのが、糟屋氏の加古川との繋がりの始まりです

この糟屋有季さんは都落ちした義経さんの探索の為に、再び上京

文治二年(1186)九月二十二日、糟屋有季は中御門東洞院に潜伏していた義経さんの郎等の佐藤忠信を襲撃して、自害に追い込みます

何故、佐藤忠信の居場所が分かったかと云うと、忠信が人妻であるかっての恋人に手紙を送った事から、その夫から糟屋有季に密告があったのですえー

同じ頃、現在の加古川本町に藤原氏の氏神である春日大社から勧請したのが、春日神社です



なんたって、糟屋氏は藤原冬嗣、つまりは中臣鎌足に繋がる系譜ですから…

狛犬さん



この構図は珍しいですよビックリマーク

同じ境内にある赤壁大明神(赤壁さん)

正式名は丸亀神社




おどろおどろしい赤い壁面



独自ネタはないので、説明板を参照して下さい

撫猫




撫でると良い事(金銭的に)があるとか!?

でもこのお話しは本来道徳的には、賭け事にのめり込んではいけませんよ!と云う話ではないのか?汗

大河ドラマは基本的に見ないので、現在どの辺りが放送されているのか知りません汗

加古川城跡とされる称名寺(加古川町本町)



説明板によると、「播磨鑑」によると五十間(約90㍍)四方で雁南庄加古川村に所在し、村より一丁西にあるとされています


寺域の北側


90㍍と云うとほとんど現在の寺域と同じくらいでしょうか?(あくまで目測)

寺域の西側




城の遺構は残ってません


糟屋有教が承久の乱(1221)の後に、当地に築城

11代城主が糟屋朝正で、その同母異父の弟とされる12代城主が賤ヶ岳七本槍として有名な糟屋武則です

天正五年(1577)加古川城で播磨の諸将を集めて、対毛利氏に関しての会議(加古川評定)が行われます

かの三木城合戦の発端(別所氏の織田氏からの離反)となったとされています

中国攻めの責任者羽柴秀吉の前には、三木城主別所長治の名代として、叔父の別所吉親、家老の三宅治忠らが参会

別所吉親は長々とつまらない自説を述べ、秀吉の不興を買ったと云います

古今東西、話を面白くしようとするのは世の常

別所吉親の弟に別所重棟(重宗)がいますが、彼が別所家の織田家との交渉を担い推進し、吉親が毛利氏との交渉をしていたと云うそれだけの話だと思います

別所重棟は三木城合戦の折りには、別所家から離れて浪人していたといいます

播磨の諸将を織田方に導いたのは黒田官兵衛ですが、別所重棟も例外ではありません

現在、兵庫県立歴史博物館で開催されている軍師官兵衛展

この展示品の中に黒田官兵衛と別所重棟に宛てた羽柴秀吉書状があります

天正五年十二月十日付け書状ですから、加古川評定の後、別所長治が織田方から離反する前になります

別所重棟の娘と当時十歳の官兵衛の嫡男松千代(長政)の婚姻を約束する内容です

一方、加古川城主の糟屋朝正とその嫡男は別所氏側に付いて、糟屋武則は秀吉に従います

武則が秀吉に従ったのは、黒田官兵衛の推挙があったとも云います




称名寺には糟屋武則の物と紹介されるお墓があります




糟屋武則の経歴は良く分かってませんうう

名前だけでも、正之助・助右衛門・真雄・数正・宗重・真安・宗孝とあります

特に宗孝は武則の息子という説もあり

称名寺の寺記には糟屋宗孝は元和九年(1623)八月に死去したと記されているそうです

が、しかし、画像にある墓碑には元和九癸亥年八月十五日糟屋掃部武茂とあるのですが…泣