山国神社を後にして、山国護国神社に参ります
山国神社と同じように橋には山国隊行進のレリーフ
因幡藩に附属して、東山道総督府の元に各地を転戦し、明治2年2月18日に山国荘に凱旋
その間に7名の戦病死者を出します
早くも2月21日には伍長会議を開き、招魂祭を開き、辻村の薬師山を祭場とする事を決める
同25日に軍装し、山国神社に拝したのち七士の慰霊祭を執り行います
石段を登って中段右手に7名の招魂碑が並びます
右から(敬称略)
・仲西市太郎(京都への凱旋直前に江戸にて病死)
・高室重蔵(江戸にて病死)
・北小路萬之輔(京都に凱旋後、山国荘に帰る前に病死)
・新井兼吉(安塚の戦いにて行方不明、戦死扱い)
・田中浅太郎(安塚の戦いにて戦死)
・田中伍右衛門(上野彰義隊との戦いで戦死)
・高室治兵衛(安塚の戦いにて戦死)
石段左手には、明治2年4月22日に山国隊隊長の因幡藩士・河田佐久馬子爵によって建てられた山国隊招魂場碑がある
さらに石段を登って正面には、鳥取藩主池田慶徳の歌碑とその子息池田輝知侯爵の碑文
その左手には、コの字型にその他の山国隊士の招魂碑が並んでいます
向かって右の一列手前から
・司令士原六郎・隊長河田左久馬・水口市之進・久保為次郎・北小路源三郎・平井利三郎・辻定次郎・横田太郎左衛門・水口源次郎・高室誠太郎の10柱
奥の横一列右から
草木栄次郎・藤野寛治・辻繁次郎・藤野齋・辻啓太郎・久保秀次郎・佐伯権之丞・前田庄次郎・渋谷利三郎の9柱
向かって左の一列奥から
上野平左衛門・塔本清助・大前松之助・北小路左藤次・橋爪直三・橋爪千代蔵・橋爪治兵衛・田中市太郎・藤野宇之輔・横田久馬次・水口幸太郎の11柱
青字の但馬の郷士の司令士原六郎、隊長の因幡藩士河田佐久馬、山国隊の沙汰人の一人で京都で留守組の中心人物であった水口市之進を除く34名は東山道総督府軍として進軍中の大垣宿での血盟書に見える34名と同一になります(但し、招魂碑の橋爪直三と血盟書の橋爪平八郎を同一人物とすれば)
隊長の河田佐久馬さんと司令士の原六郎さんについては、また機会があれば…
山国神社と同じように橋には山国隊行進のレリーフ
因幡藩に附属して、東山道総督府の元に各地を転戦し、明治2年2月18日に山国荘に凱旋
その間に7名の戦病死者を出します
早くも2月21日には伍長会議を開き、招魂祭を開き、辻村の薬師山を祭場とする事を決める
同25日に軍装し、山国神社に拝したのち七士の慰霊祭を執り行います
石段を登って中段右手に7名の招魂碑が並びます
右から(敬称略)
・仲西市太郎(京都への凱旋直前に江戸にて病死)
・高室重蔵(江戸にて病死)
・北小路萬之輔(京都に凱旋後、山国荘に帰る前に病死)
・新井兼吉(安塚の戦いにて行方不明、戦死扱い)
・田中浅太郎(安塚の戦いにて戦死)
・田中伍右衛門(上野彰義隊との戦いで戦死)
・高室治兵衛(安塚の戦いにて戦死)
石段左手には、明治2年4月22日に山国隊隊長の因幡藩士・河田佐久馬子爵によって建てられた山国隊招魂場碑がある
さらに石段を登って正面には、鳥取藩主池田慶徳の歌碑とその子息池田輝知侯爵の碑文
その左手には、コの字型にその他の山国隊士の招魂碑が並んでいます
向かって右の一列手前から
・司令士原六郎・隊長河田左久馬・水口市之進・久保為次郎・北小路源三郎・平井利三郎・辻定次郎・横田太郎左衛門・水口源次郎・高室誠太郎の10柱
奥の横一列右から
草木栄次郎・藤野寛治・辻繁次郎・藤野齋・辻啓太郎・久保秀次郎・佐伯権之丞・前田庄次郎・渋谷利三郎の9柱
向かって左の一列奥から
上野平左衛門・塔本清助・大前松之助・北小路左藤次・橋爪直三・橋爪千代蔵・橋爪治兵衛・田中市太郎・藤野宇之輔・横田久馬次・水口幸太郎の11柱
青字の但馬の郷士の司令士原六郎、隊長の因幡藩士河田佐久馬、山国隊の沙汰人の一人で京都で留守組の中心人物であった水口市之進を除く34名は東山道総督府軍として進軍中の大垣宿での血盟書に見える34名と同一になります(但し、招魂碑の橋爪直三と血盟書の橋爪平八郎を同一人物とすれば)
隊長の河田佐久馬さんと司令士の原六郎さんについては、また機会があれば…