3月の間は色々な「節目」に立ち会わされる機会(と同時にそのようなものをなぜか意識してしまう機会)が昨年のこの頃に比べて約三倍以上多くなり、その意味ってなんだろうな〜、と。                                           そのときに意識を内面にむけてみてふと蘇ってきた記憶が、大学時代の文化人類学の授業できいていたポリネシア文化における「通過儀礼」というもの。確か、子供から大人になる為の儀式、だったはず。それは子供の自分から大人になる節目。自分自身もそうだし、それをとりまく周りにも知らしめるもの。以前のものに区切りをつけなければ、自分も、それを取り巻く周りの人も前に進めない(あえてそういう表現)。人間とは節目をつくらないと、断ち切れないものだから、「成人式」があり「結婚式」があり「葬式」がある。「契約」の時がある。もっとふわっとすると新卒の会社であれば入社式があり、歓送迎会があり。。。いわゆる「けじめ」というもの。もっとも、それらは形式的に行うだけでなく、自分で地に足をつけ、腹を括って受け入れるからこそ初めて意味をもち、動き出す。。。のかもしれない。
自分はそうやって過去の自分に決別し、前にすすんでこれていたのだろうか。前に困難があると予感してもその予感を跳ねのけ、困難にぶつかると決意して歩んだことがあっただろうか。卒業したつもりで実は何からも前にすすめていない、子供だっただけじゃないのか。ただ、過去のトラウマを引きずっていただけではないのか。ただ楽をしようとしてきただけではないのか。
 自分だけかもしれないけど、そうやって負債から逃れている限りずっと追ってくる。向き合いたくなくとも追ってくる。
 実は人にはいえない自分の課題もある。課題だと思っていたことは答え合わせしてみて、実際人生の課題としてそうなんだろうな、最近わかった(気がする)。

人より悩みから逃げてきたんだろう。人それぞれ課題があるとしても。自分の見方、在り方は自分の現実に影響している。それでも、今すぐ根元ががらっとは変わらないから。
だから、向き合ったそのつけが今あり、
あらためて自分を内省。それでも、それだからこそ今あるこの瞬間に地球にしっかりと足をつけ、何が自分がしたいのか、すべきなのか、真剣に感じ、行動しなきゃ。ほっとくと自分の意識はすぐどっか別の場所にいっちゃうから。

 今の自分にも、遅かれ早かれ「けじめ」「けり」をつけなければならない気はしている。時間はそう長くはない。

10分くらいで書いて推敲もなんもないから雑な文章だけど、とりあえず書いてみた。

 とりあえず、断捨離を加速しよう。