江戸幕府は、行政にお金がかからない仕組みを説明しました。つまり町人に任せたわけです。

 この本来の自治制度(役人がするのでなく、住民そのものが行う)は、「村の行政」でも活きてきます。
 水利権の調整・新田の開発・耕作者の消滅。土地所有権の争い・入会権の調整などなどの村行政も村役人と主だった村人たちの合議制で運営していきました。隣村との争いも1次的には自分らで解決し、手に負えない場合にのみ、お代官さまや群奉行に「おねげぇしますだぁ」でありました。

 説明したように町衆には税金がありませんでしたが、村には「年貢」があります。ここでいくら納めるか?とうことですが、「検地」で行われた生産高の35~40%を「村」として納めるわけです。

 個人で納めるわけではありません。だれがどれだけ負担するかは、村で決めるわけです。(地方自治)幕藩体制そのものも地方自治ですが。

 詳しくは分かりませんが、いろんな事情を勘案していたかも知れません。「今年は○○家はいろいろあったからなぁ~。」などと融通(情)が効いたかも知れません。

 そして、野菜など換金作物や特産品などは、年貢の対象外です。また農耕技術の向上で石高以上の収穫があっても、すべて村のものです。こんなので、出費などを賄っていたのかも知れません。

 だから、「村八分」は怖いのです。