まとひつく暑さ鉛筆グリグリ削る ゆめにこか
(『田』2月号・田集より)
近年の真夏は、猛暑だの酷暑だの言われるが、とにかく暑い。
気温だけでなく湿度も高く、まさに体に「まとひつく暑さ」である。
その不快とも言える暑さをどうにかこうにか句にしようと試行錯誤する。
俳句をやる人間であれば、恐らく誰もが通る道だろう。
私だったら暑い暑いとだらだらしてただ愚痴をこぼしているだけだが、作者は暑さと真っ向勝負することにした。
暑さなんかに負けるものかと「鉛筆グリグリ削る」のである。
「まとひつく暑さ」を振り払うかのように、一心不乱に鉛筆を削っている作者の姿は鬼気迫るものがある。
「577」もしくは「8、11」の破調の調べが非常に効果的だ。
果たして作者は、鉛筆を使いたくて今削っているのだろうか。
私はそうではないような気がしている。
暑さの中、傍に転がっていた鉛筆が目に付き、思いつきで、勢いに任せて削っているのだと想像する。
その行為は暑さとは直接何の関係もないが、暑さへの怨みのようなものすら感じる。
人は限界に達すると何をしだすかわからない。
鉛筆をグリグリ削っている本人も、なんでこんなことをしているのかわからないのではないだろうか。
けれど、暑さを乗り切るため、生きるためにこの行為はきっと必要なことなのだ。
可笑しみと狂気と真理とが共存している、大好きな一句である。
(いつかの紅梅。紅梅は狂気が感じられて好きです。そろそろ梅見に出掛けたいです)
笠原小百合 記