マンガの王様と呼ばれた天才萬画家・石ノ森章太郎を訪ねる墓地の旅その2 | 電撃ネットワーク ギュウゾウ ブログ『ギュウゾウ新聞』 Powered by アメブロ

マンガの王様と呼ばれた天才萬画家・石ノ森章太郎を訪ねる墓地の旅その2

■マンガの王様と呼ばれた天才萬画家・石ノ森章太郎を訪ねる墓地の旅その2。


聖地巡礼~いざ墓参へ。



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漫画と平行してアニメ制作へ――スタジオ・ゼロ時代の石ノ森章太郎。


漫画家としての黎明期を聖地トキワ荘で過ごした石ノ森は、漫画と平行してアニメ制作にも携っていく。

スタジオ・ゼロの立ち上げである。


スタジオ・ゼロは昭和38年(1963年)5月、トキワ荘の人気漫画家らがアニメを作るために興した会社である。創立メンバーは、すでにアニメ制作に携っていた鈴木伸一(ラーメンの小池さんのモデルになった人物)、石森章太郎(のちの石ノ森章太郎)、つのだじろう、藤本弘(藤子F不二雄)、安孫子素雄(藤子不二雄A)、角田喜代一の6重役と社員1人でした。そこに赤塚不二夫、長谷邦夫が参加することになる。

スタジオ・ゼロは中野で発足した。ゼロからの始まりという意味で「スタジオ・ゼロ」と名づけたが、スタジオは夜逃げしたボクシングジム跡のボロボロなバラック小屋だったそうで、回りからは「スタジオ・ボロ」と呼ばれていたそうだ。


その後、スタジオ・ゼロは多忙となり、昭和42年(1967年)10月に西新宿の十二社(じゅうにそう)交差点にある古い鉄筋コンクリート4階建ての市川ビル3、4階に移転をする。

この時期には、鈴木以外の創立メンバーが漫画連載を多数抱えアニメ制作に携れなくなっていき、アニメ専業の社員を増やし、最盛期には100人近くの社員が在籍する大会社となる。

そして、昭和46年(1971年)10月、初代社長の鈴木、第2代社長のつのだじろう、第3代の藤本、第4代社長石森の時に解散した。


スタジオ・ゼロでは多くの大ヒットアニメが産声をあげた。
藤子不二雄の「オバケのQ太郎(パイロット版)」「パーマン」
「怪物くん」「ウメ星デンカ」「忍者ハットリくん(実写版)」。
赤塚不二夫の「おそ松くん」。石ノ森作品では「佐武と市捕物控」「となりのたまげ太くん」「星の子チョビン」などがここでアニメ化されている。


スタジオ・ゼロがあった市川ビルは平成15年(2003年)9月に取り壊しになるのだが、なぜか3階の窓ガラスには「スタジオ・ゼロ」と名前が貼ってある窓が残されていたままであった。

当時の様子は「二人で一人の漫画ランド」(藤子不二雄著・廣済堂出版刊)や、山田ゴロ氏の著作などの写真で見ることができる。


石ノ森は、練馬の桜台駅南口すぐ近くの喫茶店「ラタン」にある専用席でネームを描き、アシスタントへの指示をし、編集者と打ち合わせをするのが日課。窓際の三人席に座り、タバコはダンヒル、一日80本吸っていたそうだ。


そのラタンも取り壊されてもう無い。
当時は1階がパチンコ屋で2階にラタンがあったが、今は居酒屋の魚民となっている。
(練馬区桜台4丁目1-3)


駅前交番を見ながら歩く。


すがやみつる氏のエッセイで、「踏切の北側には交番があった。『マンガ家入門』を読んだマンガ家志望者や、『サイボーグ009』『ジュン』などのファンが、石ノ森先生宅への道をたずねた交番」と書かれていたあの交番だ。


漫画がマンガになり、それが動き出してアニメとなり、実写となっていく歴史のど真ん中を歩んだ「漫画の王様」石ノ森章太郎。


氏の残した功績や歴史を感じながら歩いた。
山田ゴロ氏、すがやみつる氏がエッセイで書いていた道を辿りながら石ノ森の自宅まで歩く。



続きははこちらで!
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■人間魚雷回天の島を訪ねる編も再アップされました。
http://www.circus-net.jp/circusblog/gyuzo/%e3%80%90%e4%ba%ba%e9%96%93%e9%ad%9a%e9%9b%b7%e5%9b%9e%e5%a4%a9%e3%80%91%e7%b7%a8/