宝瓶宮 31.あの唄はもう甘すぎて

―1月31日―

ずっと昔、母が歌っていた唄を思い出す。
その唄はあるオペラの中で歌われるアリアだった。残念ながら題名は忘れてしまったが、歌の内容は覚えている。
『お父さんはこの唄で私にプロポーズしてくれたのよ』
母ははにかみながらそう話していた。
恋人への憧れを月に重ねて歌ったその唄を、私は幼いながらもはっきりと覚えている。
美しい旋律と、それを耳にする度に浮かんでくる月と水の情景。
私もいつかこの唄を歌っていた彼女のような熱い恋ができるだろうかと、小さな私は胸をときめかせていた。

「クラシックは聞かないんですか?」
ある日のトレーニングの終わりにそう訊ねると、
「…そうだな。」
少しがっかりする答えが返ってきた。
「ボスが時々流しているのを聞くことはあるが、自分でかけたいと思うことはあまりない。」
「でも、レオンさんもレコードたくさん持っておられますよね。あれは…」
「あれはクラシックのじゃない。PINK FLOYDとかKING CRIMONとか、そういうプログレッシブ音楽のものだ。」
プログレッシブ。聞いたことのないジャンルだ。
「お前は好きなのか? クラシック」
「ええ。母がよく聞いていたんです。」
ああそうそう、と、私は思わず口走っていた。
「何て題名かは忘れたんですけど、父が母にプロポーズする時に歌った歌があるんですよ。
 確か――ドヴォルザークの『ルサルカ』というオペラに出て来る歌です。」
それを聞いたレオンは一瞬驚いた顔をして、
「そうか。あの唄か。」
そう呟いて、話を打ち切った。

あの唄はもう甘すぎて、私が歌えるようなものではない。
それにこの歌に乗せて想いを伝えたとしても、レオンには届かないだろう。
そうするくらいなら、ストレートに想いを伝えた方がきっとよく届く。
水に映った月を掴むように空回りするぐらいなら、空に昇っている月を掴もうとして空回りする方がずっといい。