処女宮 20.お行儀よくさようなら

―9月20日―

「彼はもういないわ。」
私は、星川真珠美にそう告げた。
彼女の『かかりつけ』の病院だった整形外科医院。そこに星川真珠美はいた。
9月だというのにダッフルコートを着て、大きなマスクで顔を隠した彼女は、力なく診察室の診療台に横たわっていた。
「…ああ?」
スタジオで会った時とは違う、ガラの悪そうな声をあげて、星川真珠美が振り向く。
「彼は死んだ。」
私は彼女から目を逸らすことなくきっぱりとそう告げた。
ぎょろりとした目が震え、うそよ、とかすれた声が漏れる。
「嘘じゃあない。私が殺したの。」
「どう、して」
ゼイゼイと苦しそうな息が聞こえる。風邪をひいているのか――いや違う、これもまた体がもたなくなっている兆候だ。
「“やってはならないこと”をしたから。
 無関係の人間を殺して、その遺体を辱めるような真似をした。それが理由よ。」
星川真珠美を見据えながらも、私はポケットの中のアイシャドーと口紅を握りしめて離さない。
紅いダッフルコートがもぞもぞと動き、星川真珠美がゆらりと起き上がった。
そのコートの袖から覗いていた手を目にした時、私は驚いた。
――彼女の手は、もはや元の形をとどめていなかった。
手を隠すための手袋を突き破り、赤や青の血管がズルズルと伸びて来て根の様に診療台を這う。
彼女は震える足を組み、玉座の上の女王の様に振舞った。
額に汗を浮かべ、荒い息を吐き、見るからに苦しそうなのに。彼女はまだ自分を美しく見せようと振舞っている。
私は彼女から目を逸らし、ポケットの中で握りしめていた化粧道具を取り出した。
「残念だわ。貴方と共演できるのを楽しみにしていたのに。」
ボルドーのアイシャドーを指で掬って瞼に乗せる。
「聞いたわよ。天宮君をストーキングしていたそうね。」
唇に口紅を引く。アイシャドーの色と合わせた、深めの赤い色だ。
「…それが、何。」
ひとつ深呼吸をする。体の血の巡りが速くなる。
「あなたの部屋には、今頃私の仲間達が証拠を集めに向かっているわ。」
目を見開いた星川真珠美に向かって私は続ける。
「天宮君の盗撮に使っていた監視カメラも警察が回収した。メールの出所ももう調べがついている。
もう終わりよ、星川さん。」
体が熱を帯びる。全身の筋肉が、弦楽器の弦を調律する時のように、キリキリと締まっていく。
星川真珠美の目が、驚きで大きく見開かれた。
「あ、…あな、た、それ…どう、なってるの…」
どうなってるの――とは、私の“変化”を指しているのだろう。
背丈が延び、筋肉が締まり――髪の色も変化していく。それが化粧を施したことにより私の体にもたらされた変化だ。
薄い茶色だった私の髪は、ブルネット(褐色)に変化していた。
「か…髪、が」
「ああ、これね。普段のは仮の色。こっちが地毛よ。」
「あ…?」
「あなた、ノーマ・ジーンって知ってる?」
「…は…?」
「じゃあ、マリリン・モンローは?」
「知って、る…」
「ノーマ・ジーンは彼女の本名よ。彼女ね…元々はブルネットだった髪の毛を、脱色して金髪に染めていたんですって。これ、結構有名な話なのよ。」
「それが、何。」
僅かに力が戻って来たのか、星川真珠美の息は少し落ち着いていた。
汗も引いてきている。手足の震えも、いつの間にか治まっていた。
「あなたと同じよ。」
「ッ!?」
「ノーマ・ジーンは髪の脱色、貴方は全身の整形。方法は違えど、『自分の姿を美しく見せるために体の一部を作り変えた』という点は同じ。
だけど――貴方は、決定的な間違いを犯した。
その過程で、『無関係の人間を巻き添えにする』という、一番やってはいけない間違いをね。」
もう知っているわよね――そう締めくくった私の言葉に星川真珠美は目を大きく見開き、そしてまたブルブルと震え出した。
苦痛ではなく、怒りで。
「綺麗になるためなら多少の犠牲は構わないとでも思った?
 …私達の組織は、そういう考えを一番許さないのよ。」
「…れ…」
「あの医師が保存していた死体もすでに運び出したわ。彼は自殺したことにして処理された。
 犠牲者達は警察に引き渡されて、続々とご遺族の方に引き取られている。
 そして――彼女達の体の一部があなたの整形に使われたことも、もう既に明らかになっている。」
「…、ま、れ…」
「この事実が明らかになったらどうなると思う?
 芸能生命が断たれる、だけじゃあ済まないわよ。
 それだけじゃあない。もうあなたのストーカー行為も立件の準備が整っている。ついさっき、仲間がその証拠を警察に引き渡したわ。
そして、あなたも――」
「だま、れ…!」
「――ここでおしまいよ!」
「――黙れェェェッ!!」
私が告げるのと、星川真珠美が怒鳴るのとはほぼ同時だった。
彼女の腕が異様なほど膨れ上がり、コートの生地が弾け飛ぶ。私は思わず後ずさっていた。
筋肉の膨張、と呼べるようなものではない。肉が異常なほど膨張し、筋肉と血管がむき出しになった腕――否、腕とも呼べないものが現れている。
異変はすぐさま体全体に現れた。肩が、胸が、腹が、脚が、そして顔が――異常なほど膨張していき、肉に飲み込まれる。
「あ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! だずげでぇぇぇッ!!」
彼女が異変に気付いた時にはもう遅かった。
全身がブクブクと膨れあがり、大凡人間とは呼べない――巨大な胎児の様な姿と化した彼女は、重く潰れた声を発しながら私に向かって手を伸ばし、そのまま倒れかかってきた。
まずい、と飛び退いたのと、彼女が轟音を立てて倒れたのとはほぼ同時だった。
彼女の重量に耐えられなかった床はばきばきと凄まじい音を立てて抜け、私と彼女は地下室へ――遺体の一部を抜き取る手術が行われていたあの場所へと落ちていく。
手術台を、無影灯を押し潰して叩きつけられた彼女。その彼女をクッションにして着地する。
泥を踏んだような嫌な感触が、パンプスの底から足を伝ってきた。
倒れて立ち上がれない彼女はう゛ー、う゛ーッと呻き声を上げている。
その声に混じって、別の声が上がった。泣いているような、怒っているような叫び声が、彼女の体のあちこちから聞こえている。
足下を見下ろす。薄い皮膚の下を、人の顔のような物がスッと過ぎっていった。
そこだけではない、あちこちの皮膚の下から人の顔が現れては消え、現れては消えている。
――星川真珠美への生贄として捧げられた女性達だろうか。彼女達の遺志が、怨みが、形になって表れているというのか。
「だとしたら、」
私はぶよぶよとした肉塊の背に立ったまま、その頭に当たる場所を振り返る。
「何としても、眠らせてあげなくちゃあね。」
肉の塊が私の足に絡まり始める。私も取り込もうとしているのだろうか。
「ざお゛とめ゛ざん」
濁った声が聞こえた。
「あな゛だも゛」
「私も取り込みたいって訳?」
自分でも驚くほど冷徹な態度で、私は変わり果てた星川真珠美を睨む。
肉の中から伸びてきた血管が、細い触手の様に足に絡みついてきていた。
そのぬるぬるしたおぞましい感触に鳥肌を立てながら、私はしゃがみ込む。
深呼吸を一つ。そして、

「お断りよ。」

脚に思い切り力を込めて、私は跳んだ。
脚の肉をバネに跳び上がる。勢いで足に縋りついてきていた肉と血管がブチブチと引き千切られる。
私は天井近くまで跳び上がり、そして、星川真珠美の頭めがけて落下した。
重力を味方につけて加速し、パンプスの底を彼女の頭に向けて――落下の衝撃と共に、蹴りを頭に叩き込んだ。
膝まで肉塊に埋まる。ガツッ、と硬いものを踏み砕いた感触があった。
ビリビリと空気を震わす絶叫が上がった。鼓膜が破れるかというくらいの大音量で上がった断末魔の悲鳴が建物全体をがたがたと揺らし、窓や壁にひびを入れる。
私は耳を塞ぎ、どろりと解け始めた肉塊と共に床に倒れ込んだ。
大量の血の塊となって解け始めた彼女の体から、肥大した眼球が私を見た。
眼球は何か言いたげに私を見て、そして、ガラスの様に粉々に砕けて、赤いゼラチンの破片になって血の中に沈んだ。
肉も血管も神経も骨も全て溶けて一緒くたになってどれがどこなのか分からなくなった星川真珠美の亡骸は、大きな血の海になった。
その血の中に腰まで浸かった私は、ゆっくりと立ち上がり、血の赤い水面にぷかりと浮かんできたガラス玉の破片のような物を手に取った。
――松果体の破片。
私達エンテレケイアの頭の中に必ずある、能力の元となる器官。
彼女の頭にも、これが出来ていたのだ。
松果体の破片を握ったまま血の中を歩き始める。
お行儀よくさようなら、と行きたかったけれど、そうもいかなかった。
さようならの一語くらいかけてあげればよかった。ほんの少しの後悔を抱えながら、私は一階へと戻った。

もうじきここには仲間達が来る。
周辺の住人達も、機関のスタッフに「処理」を施されて何があったのか忘れるだろう。
星川真珠美は――恐らく失踪扱いになる。そして、世間から忘れられる。
今後のことをぼんやりと考えていた私はノックの音で我に返り、硝子戸の向こうに見える仲間を迎え入れようと玄関へ向かった。