巨蟹宮 25.ただのふるい戦争

―6月25日―

以前あの青年が教えてくれた、シャーリー・テンプルが出る居酒屋を訪れた。
店内はにぎわっていて、あちこちから賑やかな話声が聞こえる。
バーカウンターに座ると、ふっとお酒の匂いが鼻を突いた。
――この匂いは、あまり好きではない。
「隣、いいかな」
ふっと顔を上げると、あの青年がいた。
偶然――にしては少し都合がよすぎるタイミングだったが、気にしないことにした。

シャーリー・テンプルは、甘酸っぱい味がした。
カシスにオレンジを混ぜた、子供の飲み物とも大人の飲み物とも取れる甘酸っぱい味。
ふと隣を見ると、青年も同じものを頼んでいた。彼もこれが好きなのだろうか。
こんなオシャレなお酒(本当はお酒ではないけれど)を飲むのは、生まれて初めてだ。
「いすずさんは」
隣の青年が急に語りかけて来て、驚いて振り向いた。
「その…下戸、なの?」
「ええ」
すみません、と小声で謝った青年に、精いっぱい笑いながら私は答える。
「お酒って、飲みにくいもんね。酔っぱらうのが怖いとか思っちゃうし。」
「それもありますね。でも私の場合は、」
その時、私は
「お酒を飲む人が嫌いだったっていうのもありますから。」
思わず、口にしていた。
今まで誰にも明かさなかった、私自身の事情を、つい三日前に知り合ったばかりの青年に話していた。
青年は驚いた顔で私の方を見ている。
私はその目をじっと見返して、続けた。
「私の父親は、ひどい酒飲みだったんです。」


ここからは、私自身の過去語り。
私の「ふるい戦争」の話だ。

先にも述べたように、私の父親はひどい酒飲みだった。
父親は最初からそういう人間だったわけではない。だが、物心ついたころには彼は既に大酒飲みのろくでなしとなっていた。
その理由は――これがまあよくあるパターンなのだが――勤め先を解雇されて自棄になったから、というものであった。
父の稼ぎを失った私の家は貧しく、仕事も探さず一日中家にいるようになった父に代わって母親が働きに出るようになった。
私はというと、家は貧しいわ父がろくでなしだわで近所の子供から毎日のようにああだこうだと囃し立てられ、惨めな子供時代を送ったものだった。
最初のうちこそ悪口を言われるたびに泣いていたが、ある時を境に私はぱったり泣かなくなった。
私が泣こうと何も変わらない、その事実に気付くと、一々泣くのがあほらしくなったのだ。
子供達もそんな風になった私に飽きたのか、やがて誰も私の悪口を言わなくなっていった。

が、その代わりに、今度は大人達が私の家の悪口を叩くようになっていった。
その原因を作ったのは父だった。父は母が必死に稼いできた生活費を酒代につぎ込み、挙句の果てに金を借りるようになったのだ。
そんなに酒が大事なのか、と子供ながらに呆れたのを、私は今でも覚えている。
借金はどんどん膨れ上がり、父は母が咎めるのも聞かずますます酒に溺れていった。終いには―これもまたよくあるパターンだが―私や母に暴力を振るうようになった。
父の悪口はあっという間に近所中に知れ渡り、近所の人々は私達を避けるようになった。道を歩くたびにコソコソと陰口を叩かれるのが日常茶飯事となった。
それでも父親は、私達には阿呆のように威張り散らし続け、借金取りが来ると別人のように弱気になってヘコヘコと土下座をしていた。

――母がそんな父親に愛想を尽かすのに、時間はかからなかった。
一年と経たないうちに、母は私を連れて家を出た。
生活は一層苦しくなったが、それでも暴力亭主のいる生活よりはマシだった。
そして、そこで私は好きなことを見つけた。それが、今仕事にしている「切り絵」だった。
母の内職を手伝っているうち、私は切り絵の紙細工を作るのが得意になっていった。
稼ぎは少なかったけれど、鋏と色紙から色々な形の切り絵を切り出すのはとても楽しかった。そうしている間は、嫌なことをすべて忘れられた。
近所の人が私達の陰口を叩いていることも、学校で同級生達から父なし子と馬鹿にされていることも、物を隠されたり壊されたりすることも、「もうどうでもいいや」と思えるくらいだった。

――そんな生活を全て台無しにしたのが、父親が私達の家に押しかけたことだった。
あのろくでなしめはどこでどう嗅ぎつけたのかは知らないが、私と母が住んでいる家を見つけて押しかけて来たのだ。
母は居留守を使って必死に私を守った。あの男が荒々しく戸を叩いて入れろ開けろと騒ぐのを必死にやり過ごした。
だが、あの男は更に卑怯な手で私達を追い詰めようとした。彼はあろうことか、借金取りに私達のことを教えたらしい。父だけでなく、借金取りまでもが私達の家に押しかけるようになった。
父は開けろ入れろ聞こえないのかと怒鳴り、借金取りは父の金を代わりに貸せ、できないなら体を売れと怒鳴る。
そんなことが連日続いていたにもかかわらず、誰も私達を助けてくれなかった。
何でこんな目に遭わねばならないのだろうと父を恨んだのは、その時だった。
何でこんな悪縁ばかりが付きまとうのか、そう苛立った私は、家の近くにあった縁切り祈願の神社に毎日お参りをするようになった。
縁切り塚をくぐって、賽銭を捧げて必死に祈りを捧げた。
それに飽き足らず、私は自己流で父や借金取りに呪いをかけることにした。
父と借金取りに見立てた人形を、鋏でざくざくざくざくと切り刻む。細かく細かく切って、塵のようになるまで切り刻み続けた。
私や母との縁が切れるついでに、この世との縁も切れればいいのだ――そう呪いを込めて、ひたすら紙を切り刻んでいた。
――父親と金貸しが死んだと聞いたのは、それから一月と経たないうちのことだった。
彼らは、体を切り刻まれて高瀬川に投げ込まれていたのだという。互いに争いになった末に死んだのだろうと、警察はそう断定していた。
――彼らを殺したのがほかならぬ私だと知ったのは、その後のことであった。


「…えっ、と…」
「つまり、ただのふるい戦争の話です。」
私はそう言って、昔話を無理やり締めくくった。
到底信じがたい話だろう。父と借金取りが都合よくころりと死に、しかもそれが私の超能力の仕業でしたなんて誰が信じられるだろうか。
「あの時の父親は本当にろくでなしでね。酒を飲んでは威張り散らしていたんです。
 私はそんな大人にはなりたくないってずっと思っていました。お酒であんなだめな人間になるのは嫌だって思ってたんです。」
「…だから、お酒が苦手だったんだ。」
「ええ。」
私は笑って見せたが、青年の顔は強張っていた。
「…ごめんなさい。こんな話して。」
「いいえ。」
青年の引き攣った笑顔から目を逸らし、私はシャーリー・テンプルを一口啜った。