三、対決 その二
それはもはや、人の顔をしていなかった。
完全な異形の顔だった。
ぬっぺふほふは、妖怪の本性を現した顔を静夜に向ける。
『何を驚いてんのさ。とっくに知ってたんだろう? あたしが人間に化けてることにさ。』
その声は、どう考えても喉を通して出している声ではなかった。変声機を通したような、嫌な響きのある声だった。
彼女が喋るたびに顔のしわがうねうねと動く。不快感を否応なくもよおすその顔に、静夜はもう一度刀を向けた。
だがぬっぺふほふはそんな静夜に目もくれず、細田の方をふいと向いた。
『しかしまあ、アンタも馬鹿だねえ。見た目がきれいだからってフラフラついてきちゃってさ。
結局アンタも見た目がきれいな方に惹かれるってこったね。』
「ちが…」
細田は青褪め震えながら必死に反論しようとしたが、ぬっぺふほふの哄笑がそれを遮った。
『でもそンなことはもうどうでもいいわ! 細田君、ここまでアタシにノコノコついてきてくれてありがとう。疲れただろうし一休みしましょうよ。
――あの世でねェーッ!』
瞬間、ぬっぺふほふの顔がスライムのようなブヨブヨとした肉の膜となって広がった。
膜は細田を包もうと彼を囲むように広がる。
何をしようとしているのか、静夜は瞬時に理解した。
――細田を食らう気だ!
考えるより先に体が動いた。
静夜はぬっぺふほふ目がけて走り、彼女の肉の膜目がけて刀を振り下ろす。
膜がべろりと裂け、ぬっぺふほふがその痛みに呻いた。
ぐるりと顔を巡らせて振り向いたぬっぺふほふは、今度は静夜目がけて肉の膜を広げる。
包み込まんと襲い掛かったその膜はしかし、居合の声と共に次々と斬りつけられ、みるみるうちにずたずたにされた。
『ちッ』
ぬっぺふほふは舌打ちし、また肉の形を変え始める。
今度は腕がぬるりと長くのび、白い大縄のようになった。
その腕がしなり、静夜目がけて襲い掛かる。だが、白い腕は静夜を張り倒す前に突如現れた黒い大縄に弾き返された。
『ふん、弱いの』
朔夜が鼻で笑った次の瞬間、黒い大縄はくるくるとほどけて何本もの細い縄に変化した。朝顔の花が咲くような、優雅なほどけ方だった。
その縄のとがった先端が、一斉にぬっぺふほふ目がけて突き刺さる。
腕が、足が、胴が、黒い針に串刺しにされて磔の恰好で縫止められた。
「朔夜!」
静夜は慌てて声を上げたが、朔夜はいつものように落ち着いていた。
『案ずるな。中の人間は外してある。』
ぐ、ぐ、と呻く声を挙げながら、ぬっぺふほふはなおも顔を動かす。
彼女が動くたび、黒いとげが刺さった傷口から血の代わりの赤黒い穢れが噴き出した。
『構えろ、静夜。』
朔夜が再び言った。
だが、その言葉じりにかぶせるようにぬっぺふほふも口を開く。
『あたしを斬る気かい』
「ああ。」
即答。
その瞬間、ぬっぺふほふが哄笑を上げた。
「何がおかしい?」
静夜が怪訝な様子で訊ねた、その瞬間。
『無駄さ無駄さ! あたしをいくら斬ったって倒せないよ! だって』
ぬっぺふほふは勝ち誇ったように嗤いながら言った。
『離れた場所に置いてあるんだよ…あたしの本体をね。つまりあたしは分身ってわけさ。
例えあたしをここで斬っても、そこからまた新しいあたしが生まれるんだよ!』
「な…」
絶句する静夜の前で、ぬっぺふほふが顔のしわを歪めて嗤い顔になった。
『それじゃあ最期に、アンタを食わせていただこうかね――』

―――

「あれ?」
露店を回っていた白茅はふと異臭に気付いて足を止めた。
生ゴミに似た臭いが辺りに漂っている。ゴミ捨て場はここよりずっと遠くのはずなのだが。
『…臭うわね』
臥龍がぽつりと言った。
(うん。…どう考えてもゴミの臭いじゃないよね、これ。)
その証拠に、周囲を歩く人々は誰一人異臭に気付いている様子がない。
臭いの下を辿り、白茅はそろそろと歩く。
臭いは露店の裏手から漂ってきているようだった。
(この辺り…ッ!?)
臭いがひときわ強く漂う場所をひょいと覗いた瞬間、白茅は固まった。
焼きそばの露店の裏、暗がりに白くぶよぶよした塊がいる。
大きさは人一人分だろうか。時折ぶるぶると震える様は、肉というより脂肪の塊を思わせた。
(何だあれ、気持ち悪ッ…!)
無意識に口を押さえて塊を見ていると、臥龍がぽつりと呟いた。
『…ぬっぺふほふね』
(ぬっぺふほふ?)
『腐った肉から生まれる物の怪よ。あのまま放っておけば、穢れを撒き散らしてあらゆるものを腐らせるようになるわ。最悪の場合人間を食べることもある。
…あのぬっぺふほふ、穢れが大分たまっているみたいね。』
見れば、白い塊には薄っすら赤黒い靄がまとわりついているのが見える。靄の色はどす黒く、ほぼ完全に黒く染まりかけていた。
まずい。そう思った瞬間、白茅は反射的に刀を取り出そうとしていた。
だが、それを臥龍は言葉で制止する。
『大丈夫。刀なんか使わなくても、簡単に倒せるわよ。』
臥龍がそういうと同時、白茅の右手がスッと肉片の方に掲げられた。と――

――ぶつッ!

何かを突き立てるような音が響く。
間髪を入れず、似た音が次々に響き渡った。
ビクビクと痙攣する肉片の表面に、いくつも穴が空いている。
その穴をつけたのは、「爪」だった。
銀色に光る爪が、肉片にいくつもいくつも突き刺さり、貫いていたのだ。
その肉片を指さすような体勢で、白茅は――いや、臥龍は佇んでいた。
(…爪を飛ばすなんてできるの?)
『まあね』
臥龍がしたり顔で微笑むと同時に、肉片は動かなくなり、赤黒い煙となって消え去った。

―――

暗がりに凄まじい絶叫が響き渡る。
静夜の前で得意顔だったぬっぺふほふは、突如我が身を襲った凄まじい痛みに耐えきれず絶叫して暴れていた。
全身に切れ目が走り、血の代わりに赤黒い穢れが噴き出す。
呆然とする静夜の耳元で、朔夜がぽつりと呟いた。
『どうやら、こいつの言っていた本体が倒されたらしいな。』
その声は、呆れていた。
「…え? じゃ、もう終わりか?」
『らしいな。ま、無駄な手間が省けてよかったよかった。』
朔夜がふうと息を吐くのと、ぬっぺふほふがどちゃりと地面に落ちたのとは同時だった。
煙のように噴出した穢れが少しずつ消え、ぬっぺふほふの肉も少しずつ消えていく。
その中から、倒れ伏す人の姿が見えた。
『取り込まれていた人間だな。まだ間に合えばよいが…』
静夜はその人の下へ駆け寄ろうとするが、朔夜が制止した。
『動くな。まだ穢れが完全に消えきっておらん。』
言っている間に穢れの煙は少しずつ細くなり、ぬっぺふほふの肉も残りわずかとなっていた。
最後の穢れが消え去る。その下から現れたのは、ぽっちゃりとした体格の女性だった。
一か月前から姿を消した同僚だろうか。静夜はそっとその人の下に近付き、脈を取ろうと彼女の体を持ち上げ―次の瞬間、愕然とした。
明るい茶色に染め上げられた緩いパーマのかかった髪、目元を彩る真っ黒なアイラインと不自然なほど長い付け睫毛、暗闇の中でもわかる朱い唇。
それは、無断欠勤していた同僚ではなかった。
「この子…細田の!」
その女性は、細田の「一の君」―― 一か月前に「四畳半」で騒ぎを起こしたあの細田の彼女の一人だった。
『この女ではないのか?』
「ああ…違う」
静夜は呆然と呟き、刀を取り落した。
ふと、朔夜に拘束されたままだった細田を見やる。
彼は気を失っていた。

―――

細田と「一の君」をその場に寝かせた静夜は、119番通報を入れて静かにその場を立ち去った。
全く予想外だった。あのぬっぺふほふに憑かれていたのは、静夜の同僚の女性ではなかった。
ならば、彼女はどこへ行ってしまったのだろう。そんなことを考えながら家族との待ち合わせ場所に向かっていた時、静夜はある屋台の前に人だかりができているのを見つけた。
その人だかりの中から、担架に乗せられた人が運び出される。
遠目にしかわからなかったが、ふっくらとした体形の女性だった。
(熱中症、か…?)
静夜は闇の中を運ばれていくオレンジの担架をぼーっと見送る。
そこに、声がかかった。
「あ、兄ちゃん!」
弟の声だった。
我に返った静夜の下に、紺の浴衣を着た白茅が歩いてくる。
「ああ…白茅」
「どこ行ってたの?」
「ちょっと遠くまで行ってた。なあ白茅、今の人…」
「ああ、あの人? さっきそこの屋台の裏で倒れてたんだって。」
「え?」
「よくわからないけど、屋台の人が見つけて通報入れたらしいよ。
怪我はほとんどなかったみたいだけど、少し弱ってるみたいだって言ってた。」
「…そうか。」
白茅は兄の不自然な反応に気付くこともなく、「行こう」と声をかけて先に歩き出す。
静夜は弟の姿を見失わないよう、彼の白い後姿を目印にして歩き出した。

―――

ようやく完結手前まで書けました。
後は最終章を残すのみです。

元々この話は「ジョジョ」第3部のネーナ戦のパロディとして書き始めたものでしたが、書いていくうちに別物になっていきました。
一応この話に出てくるぬっぺふほふはエンプレスをモデルにしています。声もアニメ版のイメージ。