梅雨の晴れ間の青空の下、今が盛りと緑の葉をうんと伸ばした稲穂がさらさらと揺れる。
そんなのどかな風景に似合わぬ冷たい空気が、この場には流れていた。
梛は、弓に矢を番えた態勢で一点をじっと見つめている。
見つめる先、延々と続く棚田の風景の一点。
そこに、くねくねと動く白い影があった。


事の発端は、京丹後のとある者から驪龍の下に依頼が寄せられたことだった。
「『くねくね』が出た」
その一言を聞いた瞬間、集まっていた陰陽師達は困惑した。
「くねくね」というのは古くからいる妖怪ではなく、最近になってインターネットで噂されるようになった妖怪だ。
インターネット上で流布されている怪談はそのほとんどが眉唾物で、そこに登場する妖怪も実在するかどうかすらわからない。
「くねくね」に関してもそれは同じで、陰陽師達は果たしてこの依頼を引き受けていいのかと皆一様に困惑したのだった。
中には「野焼きなどの煙を見間違えた」―いわゆる「誤怪」だったのではないか、という意見も上がったのだが…
『まずいことになりました。本物です。』
昨日、依頼者の下へ派遣された陰陽師から入った連絡で事態は急変した。
現れたくねくねは、まぎれもなく本物の妖怪だったというのだ。
更に厄介なことに、誤ってくねくねを間近で見て被害にあった者が出たという情報も入ってきた。
もはや悠長に構えている余裕はなかった。驪龍と梛は助手として数名の陰陽師を連れ、京丹後のくねくねが出たという場所へ向かったのだった。


そして今、梛はこうして遠くからくねくねを弓で撃とうと狙っている。
本当ならば遠眼鏡などを使って相手の姿をもっと詳しく見られれば命中率が上がるのだが、この場合においてはそうもいかない。
『くねくねを間近で見てはならない』
それがくねくねに遭遇した時の決まり。遠くから見る分には害はないが、くねくねを間近で見たりその正体を知ろうとした者は知能退行を引き起こし、二度と回復することはない。
故に、くねくねを倒すには遠距離から遠眼鏡を使うことなく撃つ他ないのだ。
もう十分は経過しただろうか、それとも三十分?――ともかく、梛はくねくねを見据えたまま撃つ機を伺っていた。
風が強い。奇妙な強風が、この棚田を轟々と吹き荒れている。
くねくねは棚田の畦で呑気にくねくねと体を動かして踊っていた。
まったく呑気なものである。これがそこにあるだけで被害者が一人増えるというのに、だ。
そのことを自覚してここにいるのだろうか。だとしたらなおさら質の悪い怪異である。
風が冷たい。昨日雨が降ったせいだろうか、気温が下がって空気が冷たくなっている。
いや――それとも、あのくねくねがいるせいだろうか?
風はまだ吹き止まない。


驪龍と助手の陰陽師達は少し離れたところから梛の様子を見ている。
遠眼鏡の類は使っていない。もし使ってくねくねを視界に入れでもしたら大変なことになるという驪龍の意見によって、今回遠眼鏡の類は一切持ってこなかったのだ。
梛は弓を番えたままもうずっとあの姿勢で止まっている。
風が吹きやまないせいで、上手く照準を合わせられないのだろうか。
遠くにいるくねくねはまだ呑気に踊っている。
その踊りを見るうち、驪龍は無性に苛々としていた。
あの人を小馬鹿にしたような動きが気に障ったらしい。
冷たい空気の中に、ピリピリとした空気が流れていた。


どれくらい経った頃だろう。
不意に、吹いていた風が止んだ。
風に煽られていた矢の先が、ぴたりと一点で止まる。
その瞬間、梛は張りつめていた弦から手を放した。
弓が大きくしなり、番えられていた矢がうなりをあげて飛ぶ。
それは獲物を目がけて飛ぶ鷹のように、真っ直ぐに飛び――

―パウッ―

風船を割るようなあっけない音と共に、はるか遠くにいたくねくねを射抜いた。
くねくねの体は液体のように飛び散り、くにゃくにゃと力なく崩れ落ちる。
そして、そのまま消えた。


大役を終えた梛が構えていた弓を下ろすのを、驪龍達は遠くから見ていた。
――暑い。
汗が額から顎にだらだらと流れている。
いつの間にか雲に隠れていた太陽が顔を出し、初夏の暑い日差しが降り注いでいた。
汗を拭う。だが拭っても拭っても汗は止まらない。
――ああ、暑い。暑い。
驪龍は必死に汗を拭う。
なぜ汗が止まらないのか、その理由はいやでもわかっている。
暑いから汗が止まらないのではない。
嫌な予感が止まらないから汗が噴き出て止まらないのだ。
隣にいる助手の陰陽師達も、同じ思いだった。うち一人などは汗を浮かべながらガタガタと体を震わせている。
「……」
驪龍は少し唇を開け、
「…嘘だろう…」
呻き声を漏らした。
弓を下ろした梛の、そのすぐ後ろに、くねくねと動く黒い影がいた。


弓を下ろした梛は、その体勢のまま動けなかった。
いつの間にか雲から太陽が顔を出し、周りが暑くなってきている。
それと同時に、額から背中から嫌な汗がどっと噴き出してきた。
――いる。
――すぐ後ろに、いる。
心臓が高鳴る。掌が汗ばむ。
遠くから見た時にも微かに漂ってきていた嫌な気配。これを発するものなど、一つしか思い当らなかった。


驪龍達は何もできずにいた。
彼らは不測の事態に焦っていた。くねくねが二体存在していたなど全く予想していなかったのだ。
不意に一人の若い巫女が、梛に呼びかけようとした。
だが驪龍はすかさずそれを引き留める。
「よせ!」
「でも奥様が…」
「今呼べば振り返るぞッ!」
驪龍の一言に、巫女はすべてを理解して更に青ざめた。
もし今梛を呼べば、彼女は振り返り――背後のくねくねを至近距離で見てしまう。
そうなれば、彼女もまた――
どうする。呼びかけようにも呼び掛けられない。
念話でも使うか? いや、今回はそのための器具を持ってきていない。
何もできないまま、時間だけがじりじりと過ぎていく。


焦っているのは梛も同じだった。
よりにもよって二体目のくねくねが出る、それも自分のすぐ後ろに出るなど予想していなかったのだ。
遠くから撃つのが正攻法。だが今はそれもできない。
――ある程度距離を取るか?
梛は思い切って前に一歩踏み出し、次の瞬間立ち竦んだ。
背後の気配も、一緒に一歩踏み出していたのだ。
どうする。これでは間合いを取ろうにも取れない。
どうすればいい――そう考えていた時、左手に何か持っているのを思い出した。
さっきまで構えていた弓と――念のために持ってきていた、二本目の矢。
それを目にした瞬間、梛ははたと閃いた。

そうだ。距離をとって撃つ必要などない。
今ここで、討てばいいのだ。


梛は目を閉じて深呼吸を一つし、乱れていた息を整えた。
弓を地面に下ろし、矢を強く握りしめる。
そして彼女は、目をつぶったまま後ろを向いた。
舞を舞うかのような滑らかな回転だった。
右足を軸に勢いよく一回転した梛は、その勢いのまま手にした矢を背後にいたくねくねへと突き立てた。


風船の割れるような音と共に、黒いくねくねの体が砕け散った。
驪龍達はそれを遠くで見て、ようやくほっと胸をなでおろした。
これで今度こそ終わりだ。
驪龍は梛を呼んだ。
「おーい! もういいぞ!」
遠くの梛はその声にようやく閉じていた眼を開き、驪龍に手を振り返した。
冷たい空気は失せ、夏の暑い空気が流れ始めていた。
(了)