大人で絵を描くのは大変である。材料費は高いし、展覧会出品費も結構高い。おまけに方々へのお礼まで必要な時がある。絵は中々売れるものではないし、無料で持っていかれたら嫌な思いしか残らない。馬鹿馬鹿しい限りだった。

 やっている者も、どいつもこいつも馬鹿野郎ばかりだった。阪神間に居たN会の池田なんちゅう爺は、40年前だったか偉そうにしていたが、名前なんかとんと聞かないし、その絵すら見た事もない。肩書きが誰それにどれだけついても、その肩書きに応じた絵なんか見た事がない。あいつらが、肩書きを得た分だけ、本当に伸びるべき者が地団駄を踏んでいるのだ。

 専門家レベルでそうだから、学校の美術・図工教員なんか、本当にたかがしれているのだ。偉そうにしていた美術教員なんか、今見ればたかがしれている。わずかなお金に頭を下げる連中ばかりである。

 大体だな。結構頑張っている絵描きが、絵だけで生活出来なければ、そんなものに何の値打ちがあると言うのだ。有名芸大を出ても、作家になれる率は非常に低い。あれだけ苦労して、勝ち抜いて卒業したところで、せいぜい専門学校の講師くらいしか見込めないというのは終わっているだろう。

 そんな何の役にも立たない勉強をあえて大学までしないといけないのか。せいぜい中学・高校の教員になったところで、美術科等あっても無くても、どっちでもいい教科なのだ。英語や数学の教員の風下にしか立てない。本当に馬鹿馬鹿しい教科なのだ。

 拙者が絵画に見切りをつけたのは、油絵だけでは出費ばかりかさんで収入にならないと思った事もあるが、大きな原因は、絵描きが詐欺師・泥棒の類いと変わらないからだった。四方八方、四面楚歌みたいなものだった。絵を描いていたのでは、好きな女とも交際出来ない。いざと言う時にお金を用意出来ない。お金ばかりかかって、周りからお金や絵・額を盗られるだけだった。身体に疲れを感じてしまって、それ以上何も出来なくなっていった。

 せっかく、中央で受賞寸前まで行ってるのに、そこで絵筆を折らねばならない苦しみを忘れるものではない。結婚の時に、大きなお金を取られたのだ。怒りや情けなさを、競馬研究打ち込んで忘れるようにしてきた。

 

 絵描き連中は、お互いに切磋琢磨しているというより、足の引っ張り合いをしている。誰が何を描こうが本来自由だ。それを、いちいちデッサンがどうのと文句ばかりつける。上手くなるように努力せず、上手く見えるようにしか行動しない。会と組織のメンツの為である。

 描きたいものを描けばいいだろう。大きな損をしないよう、生活に差し障りの無い程度に自己満足でいいではないか。腐ったような会派は不要である。

 ビル経営が終われば、出来なかった事を楽しみでやりたいと思うのだ。手のひらに入るような小さな絵でかまわないのだ。

 しかし、もう時代は変わろうとしている。本屋も新聞も潰れようとしている。テレビも、今更見ている者がどれだけいるだろう。たまにテレビをつけても、名前も知らない不細工なおっさんや爺婆が出ていて、面白くない。それよりは、YouTubeでも見ている方が勉強になる。上位で指導・経営している者の時代感覚がずれてきているのだ。

 多分、絵画だってそうだろうと思う。今更、壁に飾ろうと思う人がどれだけいるのか。

 頭を使え。感覚を鋭敏に磨け。四方八方に目を配れ。本当に楽しい事をするのだ。だったら、エロチックな変態みたいな絵しか考えられない。今更、色道に遊ぶ等考えられない。

・・・じゃないな。殺戮と残虐な絵でもいいのだが、それでは社会から受け入れられないではないか。

 やっぱり違う。金銀のきらびやかな食器でもモチーフにして描いてみるか。