何時も自虐的に悲観して嘆いている。こんな身体で、よくも長い間生きてきたと落ち込んでしまう。本当は、どこかで転落して、誰からもお世話されず死んでいてもおかしくない。

 

弱弱しい男には、世の中の女は皆こう見えている。

 誰かと口角泡を飛ばして言い合いするとか、自己主張するなどは疲れてしまう。相手が、道理に合わない事をして、陥れようとすると疲れてしまって相手するのは止めてしまう。問い詰めて、相手の非道を糾弾する等は疲弊する事のように思えるので、関係を消していく事になる。それで、相手は拙者の事をどうこう批判し始めても、もう回復する事はない。アホが調子に乗って、いいように拙者の悪口を言いふらす者がいた。何時もだ。

 身体が時折疲労して、動きが止まって行くと誰かが怒る事があったとしても、去ってしまう。出来る事は後ろから不意に襲いかかる事くらいで、刃物を持ってするとは思わない。

 自分の事に、必死で取り組んで成果が出れば、それで救われるだろうと思う。昨日・今日と、胸に痛みを感じている。肋間神経痛と間違うような痛みだが、この病気に特有のものだと思っている。軟弱で卑怯者・犯罪者紛いで、問題だらけだ。

 ビルや会社を残して急死してしまえば、誰も何も分からず何も出来ないだろうと夜寝床の中で思った。早くテナントを入れて稼ぎを大きくして、収益を増やして共同経営者を入れないと立ちゆかない。

ビルを潰すにもお金が必要なのだ。麻雀ゲームをしていたら、面白いが仕事が遅れてしまう。動ける時間が少ないので、働ける時間も少ないから、遊んでいる場合ではない。

 

新著執筆

 それで、著書を書いているのだが、昨日の反省から鋭い見識が生まれてきている。上手い事潜り抜けて、勝ち逃げしようなどは思わない。何が重要で、どこにチャンスがあって、何を見誤っているのかを明らかにしている。

 実験・研究が一段落したら、馬券で稼がないといけない。馬券だけでマンションでも買う事が出来れば言う事はない。

 研究の結果、非常に優れたコンテンツを生み出している。簡単な事なのに、誰もが見ているのに、それが分からない、誰も気がつかないという事が実際にあったのだ。調査するのに、時間はかかるが真面目に取り組んでいきたい。その方向を見定める為に著書を書いている。今日で218ページになっている。

 

町の爺婆

 今日も不愉快な爺がバス停にいた。横に座っていて、何やらカバンの中を何か始終探して、しきりに動いている。立ち上がってみたり、うろうろしたり、それでまたベンチに座ってくるが、未だ動いている。目障りで不愉快で、気になっていたが、話かけてきたので、その場を去った。

 己が何をしているのか分かってないのだ。何かが動けば気になるし、音がしても気に障る。

 30分くらいして再度バス停に戻ってくると、今度は違う爺が横断歩道を渡らず道路を横断して向こう側のバス停に走って行く。危ない爺だなと不愉快な気持ちになった。あれで事故でもあれば、騒ぎになるし道路が渋滞し、血肉がほとばしるだろう。衝突でもすれば、相手の運転手も迷惑極まりない。

 帰宅してテレビ画面を見ると爺が大暴れしていた。電車の中でタバコを吸っていて、注意されたら逆キレして相手にタバコを吹き付けて反省なんかしない。基地外だよ。

 

 先日も隣家の爺が、夜丑三つ時にテレビの音量を大きくしていた。その家の婆は、テレビなんかつけてません、と嘘を言っていた。

 以前見て不快な気になったのは、量販店のテーブルに尻を載せて座っている爺がいた。机が臭くなるだろうと嫌な気になった。

 今も、量販店の地下1階の喫茶店で、毎日決まった時間に決まった席で本を読んでいる爺がいる。爺の声を聴いたり、姿を見ただけで気持ちが悪くなる。汚い顔、汚い声、汚い姿は気色悪いのだ。

爺でなくても、阪神西宮駅のソファーに何時も座っている輩

 世の中、本当に迷惑な爺や婆であふれている。90台の爺なんか、昔は生きていなかったが、最近は医療の進歩で長生きする。耳が遠くなって、音量や声が大きくなって、周りに迷惑をかける。記憶力が絶えてきて、物を探しているが騒々しい。存在そのものが不気味である。仕事をしていた時に、自分勝手で傲慢だった者は一体どんな老後を送っているのか。虚飾は全て消えて、実質の姿だけが見えるだろう。何も出来ないのに、学歴しか言える事が無いのは恥ずかしいだろう

 日本は、安楽死を許可して、不要になった爺婆を殺処分出来るようにしても不議とは思わない。

 

 自分も、ああいう風に自分の事だけ考えて生きている有害な年寄りだけにはなりたくないと思う。身体のあちこちが絶えてくると社会の迷惑・鼻つまみ者になるのだ。