何も分かっていない、何も出来ない人

 競馬は人間の認識に関する誤謬や欺瞞を明らかにする。世間普通の事は、いかようにも糊塗することが出来てしまうものだ。

G1競馬で勝てる馬は、こうこうだと言っても誰も信じないだろう。そんなものがあったんかいな、としか思わない。この馬は絶対来るのだと聞いても、全く眉唾物なのである。競馬は何も明らかではないと思われている。明らかであればいくらでも稼げてしまうのである。

 ところが、人間の普通の社会では、いくらでも欺瞞を通すことが出来る。学歴等は最たるもので、実際の力量なんか分からないのだ。東京の有名私大出身者とペーパーバックで接したのだが、基礎的文法を全く知らなかった。小学生でさえ知っている事を全く理解出来ないのだ。国立大学出身だから、何もかも出来るのだ等と言うのは全く欺瞞である。そこを出ているから、生涯安定した裕福な生活をさえてくれ等と言われても全く保証されていない。芸大を出たからと言っても、頑張らなければ公募展で入選したり受賞なんか出来やしない。出ただけで、有名な画家になんかなれっこないではないか。

 大学の経済学部しか出てないのに、油絵とか他の事をしてもいないのに、出来る訳がないではないか。出来もしない、分かりもしないのに、偉そうにするようなボケが学校の教員には随分数多くいた。

人間の値打ちを決めるのは、学校だけではない。健康や出自もあるし、志や才能・性格という側面だってある。

 ところが、この普通の社会の事はいくらでも言い張ってしまう事が出来る。また、反対側の人間を貶めて自分や自分達を押し上げる事を平気でやっている。相手を悪くして、自分を良く見せるのだ。そういう野郎を殺しておけば良かったと何時も後悔している。あいつは死んでしまったと覚える。

 何も分かっていない、何も出来ない人がいくらでも偉そうにしているのが現実の世界である。そういう野郎を一杯見てきて、辟易している。

 もし、競馬でそれをやれば大変である。相手の馬に毒でも飲ませて自分の馬を勝たせるようなものである。

 競馬では、それが出来ないと思うから面白いと思うのだ。

 とかく、何でも決めつけてかかる人には競馬は難しいのだと思う。新聞の細部些少な事をいくら見ても回答は無い。予想プロの予想も確実ではない。血統とか指数を研究しても、連体の事は分からぬ。 

 では一体どうすればいいのか。競馬で稼ごう等と不届きな事なんか考えず、真っ当に本業に精を出せばいいのである。競馬を本業にしたかったら、もっと必死で研究しないといけない。競馬は、頭を非常に柔らかくしていくツールのようなものだと思える。

 拙者はビル経営と競馬理論が本業だと思っている。だから、勝ち負けではなく、新しい有効なファクターの創始の為に尽力している。

 

一生懸命、絵なんか描いてきても何も報われる事はなかった。むしろ、非難中傷されるのが関の山であった。批判する者は何もしていない。そういう世間の中で、そんな事にお金を使うのは馬鹿馬鹿しい事だったと思う。他人を不愉快にさせるのなら、絵なんか止めた方がいい。ただ、それでも好きだから描く事もあるし、また個展だってするだろう。

 

高瀬川S

 元々、天皇賞の前座みたいなレースであった。それがどういう目になっていくのか分からない事が一杯ある。