朝方、確定申告に必要な医療費関係の領収書の整理を始めたが、1日では終わらない。猥雑で面倒な作業だが、それでも数万円にはなるので欠かせない。

 今日は何も無かったので、そのままファッション美術館へ日展の展覧会を見に行った。今日見た審査員級・重鎮の絵だって、大体トップを張るような絵かと言うと相変わらず何か難しいものがあると感じた。絵は、あそこだけではなく、色々な会派があって様子の違う絵なんか世の中に一杯あふれている。

 つくづく馬鹿馬鹿しく感じたが、素晴らしく見える絵が無かったとは言わない。気になる絵もあったのは確かである。

拙者が活動していた頃の知り合いで、知っている人が兵庫・和歌山等で4~5人いたが、全部女性だった。東京中央の審査員級でも2~3人未だ存命だった。他の会派の知り合いも数人いた。知っている男性の作家は全て展示されていなかったようだ。

 絵などは、誰でも何でも言う世界である。己が描いていなくても、蘊蓄を言わないと気が済まない世界のようだ。絵で食べて行くなどは、審査員級でも極めて難しい。100号を超えるような大きさで異質奇怪な絵等は、大体誰もどこも買わないのが普通だ。作家の死後、家族も扱いに苦慮するのが普通である。本人が100万円だと言っても、実際4万円ですら売れないのである。貧乏人の世界丸出しである。風景や花あるいは美人画等見られる絵で、飾れる絵であれば何か救いもあるだろう。

 若い時、本格的に描き始める前から、既に色々妨害されていて失敗を仕向けられていたので伸び始めたところで一層色々酷い妨害を受けていた。特に、描かない美術教員が、他人の邪魔ばかりして恥じない。絵を描くという事は、本当に大変な事なのだ。学校を出ていても、いざ描くとなれば100号もの絵の題材を簡単には決められない。地方市展や県展の最高賞を取るだけでも、中々難しく、その市町の美術教員の誰もが取れる訳ではない。描かない者から見れば、描く人は恐ろしく見えるようで妨害ばかりしている。別に邪魔してくれなくても、それが有益でないと分かれば描く事に固執しなかった。

 80や100号は結構大きい絵なので、数枚描けば部屋を塞いでしまう。材料費も結構かかってくる。描けば描くほど、家の中のスペースを塞いできて身動き出来なくなってくる。

 若い時ならいざ知らず、今更日展なんか出しても何の望みもない。どうしても取りたいという願いではない。また、出ていた絵は丁寧・細密・綺麗ではあっても、昔の会派の中にいた独特な絵は消えていると感じた。出している人は皆、苦労しているだろうなと思う。お金ばかりかかって、絵は売れず増えるばかりで置き場も減っていくだろう。現在描くとすれば、デジタルで描く方がいい。

 たまに売れたら嬉しいだろうが、その程度では苦労はペイされまい。

 あそこの関係者が、拙者の結婚祝い金をネコババしていたので、完全に見切りをつけて縁を切っている。あの男は、他にも会派の金をくすねていた事まで当時バレていた。当の本人は、人間の屑という正体がバレてしまって、その会派を追い出されている。あのまま拙者が居残っても、同じ仲間だと思われてしまって一緒に放逐されていた可能性があったように思う。だから、先に脱退したようなものだった。くだらない世界だと見切りをつけたのである。あんなものに、一生をかける事は出来なかったのだ。絵しか望みの無い人間が、絵を諦めざるを得なかったのは悲惨な事だった。それに代わるものとして競馬を考えたから、必死で取り組んできている。涙を忘れる為に競馬をやっていたのである。

 絵を描くには、お金がかかる。教員をやっていて、お金を作り出すには競馬でもするかと思って競馬に夢中になっていた。それが、常時何十万円も稼ぎ出すとは未だ言えないので、絵に復帰することは無かった。あんなものよりは、競馬の謎を解き明かしてロジックを完成させる方が有益だと思っている。大体、それは未だ誰も実現出来ていないのである。

 会社・テナントの事や引っ越し準備に係る事で忙しいが、おまけに墓や株の事もある。それなのに、時折胸に感じる痛みが不安を誘う。

 若い時から痩せていて障害の隠された身体で、この年まで生きて頑張れている事に感謝しないといけない。それに引き換え、恵まれた身体で生まれて逞しく育っている者を見るとつくづく羨ましく思える。最近は女の人も大きく逞しい人もいて、驚かされる。あんな女性は、若い時いなかったので時代の変化だと感じる。あんな女達の前に、心臓に障害を持った男が立てるだろうか。特に今のアメリカの女は猛獣みたいに見える。