昨日の阪神競馬のように、出目が細切れ状態で錯綜して現れる場合は難しい。だから、出目の類型(パターン)を集めて、そいうした錯綜する姿を捉えようとする。

 

 2回続いた枠連の揃いを、それが素因を基にする出目であるかどうかを判定していかなければいけない。競馬の枠連は凡そ過去からの再現である場合が多い。それは、過去を継承する出目とは違うと考えても、只1回の出目継承とも考えられる時がある。レースや競走馬を固有のものだと考える人が多いのだが、それでは拙者の言う事など永遠に分かりはしないだろう。個々別々に見てしまうと競馬は分かりにくいものになる。馬も騎手も絶対固有のものではない。あるのは、数理であり思念としての存在である。数理は様々に移動するから、実体としての競走馬の能力などはあって無きが如くである。

 競馬の事は凡そ誰も説明出来ないのが普通なのだ。沢山の人たちがスポーツ新聞等で予想するが、必ず当たるとは言えない。当たるだけで珍しかったりする。プロの予想で、予想資金配分が明記されていない場合トリガミになったりする。それは配分を変えさえすれば勝てる訳で、工夫が必要である。

 注目を集めて有名になれば、それで立派と言えるかと言えば違うだろう。未だ誰も競馬を看破するような理論を開発出来ていない。功を焦って、どこにでも出張る著者もいるが見苦しい限りである。どこかで予想を開陳しても、軒並み討ち死にするという惨状は珍しくもない。

 世の中の喧騒は邪魔なだけである。絵を描いていた時に思ったのは、周りの人たちは皆コソ泥かと思った。機会があれば、他人の物やお金を奪おうとする者ばかりだった。競馬予想も同じようなものである。無料で美味しい思いをしたい人が多い。何か苦労して地道に研究しようとする人は皆無なのだ。他人の批判ばかりする人は、心が薄汚い。そのくせ、鵜の目鷹の目で美味しそうな話を探している。

 

資金配分

 予想で遊んでしまう時も多いが、多くのレースを予想する事を嫌う必要はない。勝つかどうかは、理論の良し悪しではない。わずかでも、1.1倍の配当でも勝とうと思えば勝てるだろう。それが楽しいかどうかという問題だけである。全てのレースを的中出来る可能性があってこそ、レースを選ぶ事も出来る。研究は、その為に行っている。よく分かっていない人が競馬を恐れるのは分かるが、そこまで競馬を恐れる事はない。

 だから、遊びで予想するのはエア予想か、最小資金での予想をIPATで行う。出目解析で予想していると、長い出目が生じる時に確実だと思える時は何時だってある。そこに大きな資金を投入するには、即PATに切り替えて大きく勝負すればいい。