速記を駆使した先人たち … フッサール | 個人用途の新速記法 EPSEMS(エプセムズ)

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 速記を駆使した先人たち … フッサール



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 走り書きメモ ( EPSEMS日本語速記 )

◆風変わりなメモ用文字 EPSEMS=エプセムズ 【=個人メモ用に開発された日英両対応の新速記法】 の考案者deme7=デメセブンのブログ-超汚い走り書きメモ (E日)


 エトムント・フッサール ( エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール Edmund Gustav Albrecht Husserl 1859年4月8日 - 1938年4月27日 ) は、 オーストリアの数学者 ・ 哲学者である。


 ウィーン大学で約2年間、 フランツ・ブレンターノに師事し、 ハレ大学、 ゲッティンゲン大学、 フライブルク大学で教鞭をとる。

 初めは数学基礎論の研究者であったが、 ブレンターノの影響を受け、 哲学の側からの諸学問の基礎づけへと関心を移し、 全く新しい対象へのアプローチの方法として 「 現象学 」 を提唱するに至る。

 現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、 マルティン・ハイデッガー、 ジャン=ポール・サルトル、 モーリス・メルロ=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、 学問のみならず、 政治や芸術にまで影響を与えた。


 1933年、 ヒトラー政権が成立したころには、 すでにフッサールの国際的な名声も高まり、 欧米各国ではアカデミー名誉会員に推されたりもしていたが、 ドイツ国内では、 ユダヤ人であったため活動を極度に制限された。 ( 教授資格剥奪大学構内への立入禁止国内での全著作発禁海外の国際哲学会議への参加不許可など。)


 このため、 フッサールはほとんど毎日を書斎の中で過ごし、 1日10時間を執筆に充てていた。


 フッサールは、 習得していたドイツ語の速記 ( ガベルスベルガー式 = Gabelsberger ) を駆使し、 亡くなるまでに残された未発表の草稿は40000ページ以上にも及んだ。


 1938年、 この年はフッサールが亡くなった年でもあり、 その40000ページ以上にも及ぶ速記草稿や多様な草稿が、 ナチスの侵害や戦争によって失われることが危惧されていた。


 そして、 これらの草稿は、 ベルギーの神父ファン(ヴァン)・ブレダの手によってナチスの検問を逃れ、 最終的にはベルギーのルーヴァン大学に移されるとともに、 「 フッサール文庫 」 が設立されていく。


 その後、 弟子たち関係者の手により 「 解読、 編集 」 されたこれらの草稿は、 1950年からはフッサール全集として続々と刊行され、 読み継がれてきている。


 彼の草稿を最初に管理した哲学研究所の 「 ブレダ神父 」 を最初に訪ね、 フッサールの弟子のオイゲン・フィンクと交わり、 フッサールの未完の草稿を閲覧したのが 「 モーリス・メルロ=ポンティ 」 だった。


 フッサールは数学を専攻し、 独自に現象学を創始した関係から、 概念規定が厳密だが、 あふれ出す思考を書きとめるために、 自ら速記を習得し、 草稿を書いた。


 フッサールが生前に出版した著作は6冊と、 それほど多くはないが、 彼は思索する際に、 考えを次々に草稿に残していくという習慣を持っていた。


 彼は、 草稿を思考のリズムに合わせるため、 ガベルスベルガーという速記法を使い、 膨大な草稿を書き記していた。


 そのため、 少数の助手たちを除いて、 誰もそれを読むことができなかった。


 また、 フッサールはユダヤ人であったため、 晩年、 ナチス体制下で極めて困難な生活状況に追い込まれ、 自らの思索作業の成果を公表することなど思いもよらなかった。


 それどころか、 草稿自体がナチスによって廃棄される危険が強かった。


 現代、 我々が使っている 「 ワープロ 」 の利点は 「 速い 」 ということがあり、 思考の速度に書く速度を近づけることができる。


 手書きの遅さという 「 抵抗 」 を感じつつ書くことにも一利あるのかもしれないが、 一方で、 思考の速度に書く速度が追いついていかない 「 もどかしさ 」 を痛切に感じていた人は、 過去にも多かったようである。


 フッサールにとっては、 普通文字で書くのでは遅く、 まだるっこくて仕方がなかったのだろう。


 というよりも、 彼の考え、 思いのすべてを書き切るには、 とても普通文字ではやってられなかったのだろうと推察される。


 また、 身辺に迫りくるナチスによる圧迫、 恐怖の前に、 「 記録速度の確保 」 という意味においても、 膨大な草稿の記録手段を 「 速記 」 としていったのは、 フッサールにとっては至極当然で、 自然なことだったのではないかとも推察される。


 フッサールは、 自分自身と、 ごく近い周辺のためだけに、 速記法を用いて草稿を書いていった。


 したがって、 ベルギーに 「 フッサール文庫 」 ができたとき、 彼の書いた速記草稿を解読できるのは、 シュタイン、 フィンク、 ランドグレーべ、 といった助手たちのみだったらしい。


 フッサールの速記草稿のトランスクリプション ( 訳 ) は、 彼ら助手たちにより、 手書き、 またはタイプで作成されたものだった。


 フィンクによれば、 フッサール自身が晩年の著書の中で、 これらトランスクリプションのことを示唆しており、 弟子の幾人かは、 それらの利用を許可されていたという。


 トランスクリプションだけでも膨大な量だが、 まだ普通文字に訳されていない速記草稿の量は、 訳された草稿の量をはるかにしのいでいた。


 彼ら弟子たちの協力は必要不可欠だった。


 膨大な量の速記草稿の解読、 整理は、 フッサール自身が書く速記の要領、 癖などを心得ていなければ不可能だった。


 フッサールが書いた速記は、 ガベルスベルガー式におおむね従ってはいたが、 フッサールの自己流の略記方法に満ちていたのである。



【 ↓ 参考文献等 】

◆Wikipedia
◆主な研究業績の紹介:浜渦辰二
◆松岡正剛の千夜千冊り
◆フッサール・セレクション 立松弘孝
◆JJ's blog
◆統合失調症掲示板
◆ふみくら 早稲田大学図書館報 いくつかの全集について 高橋順一
◆美しさの中を歩め 霊性思想の研究