特定健診の結果を聞きに病院に行きました。
待合で他の診療室の先生の名前を見て少し心が穏やかでなくなりました。
T先生。
20年以上前に母の乳がんを執刀した先生です。
その時、母の乳がんは3センチ。
今なら全摘だと思いますが、当時は温存でも再発率は同じと説明され温存となりました。
父は温存に反対していましたが、反対側をすでに全摘している母は、全摘した後の体の負担も考えて先生のアドバイス通り温存にしました。
(母の最初の乳がんの全摘は胸筋や肋骨の一部もとる手術だったので、術後はお箸すら持ち上げるのが困難なほど力がなくなりリハビリが大変でした。まだ40歳だったのに。)
そして、一年後、再発。
再手術の選択肢はなく、放射線治療と抗がん剤治療となりました。
同じところに放射線を当てるリスクはありましたが放射線科の先生の判断で線量や当てる場所を綿密に計算し、照射することになりました。
一通りの放射線治療が終わってしばらくした頃、皮膚の表面が赤くなり、皮膚がみかんの皮のような感じになってきました。
心配になった母は、主治医であるT先生に診てもらいましたが、放射線治療の副作用とのことで痒み止めなどの軟膏だけ処方されました。
それでもその範囲は広がます。私も心配になりインターネットで色々調べると「炎症性乳がん」というキーワードに引っかかりました。
当時は非常に珍しいタイプの乳がんという扱いだったと思います。
不安は募る一方だし、再度T先生に診てもらいましたが、相変わらず放射線治療の副作用だと。
その後、しばらくして放射線科の検診で診てもらったところ、これは放射線治療の後遺症の赤みではないからすぐに主治医に見てもらった方がいいとのことで再度主治医の元へ。(同病院内)
そこで、T先生に加え外科部長の先生が見てくださったところ、外科部長の先生の表情が一瞬で変わり、新たな治療が始まりました。
たまたま分子標的薬であるハーセプチンが世に広まり始めた頃で、母の癌はHER2陽性だったのでこの適用となり、ハーセプチンの点滴を打つことになりました。
この時にはすでに胸の赤い範囲も大きく広がっていました。
結局、母は最初の温存手術から4年で亡くなりました。
その後、その病院が乳がんは3センチの場合だと全摘の方が有意に生存率が高いと発表したと新聞でも大きく報道されました。
この時、父がその新聞を投げ捨て悔しそに涙を堪えていたのを今でもよく覚えています。
母はある意味実験台だったのか、あの時全摘していれば再発もなく今も生きていたのかも、再発後乳房が赤くなり最初に診察してもらった時点で治療を始めていればもう少し長く生きられたのかもと、今でも思います。
普段は忘れていますが、先生の名前を目の当たりにするとやはり当時の記憶が甦り、心中穏やかではなくなってしまいます。



















