「世界中を敵に回しても、親は自分の子どもを全力で守る。親って、そういうものだから」

その言葉を初めてドラマか何かで耳にした時の衝撃を覚えている。

そんな日本語があったなんて、知らなかった。

いや別に、日本語だけではないのかもしれない。

親にとって、子どもとは本来そういう存在なんだと、私が知らなかっただけだったのだ。

(他にもそういう人はたくさんいるだろうけど。)

常に宗教が優先で、その日の食事にさえ窮していても、働くよりは集会に行ったり奉仕に行ったりすることの方を、親は選んでいた。

熱心に活動していれば、神様がきっと助けてくださる、いつもそう言っていた。

子どもを助けない親を、神様が助けてくれるんだろうか、なんてことを、当時は考えたりはしなかったけれど。

中学生になり、それまではなかったアンテナがどんどん発達を始めていた。

恐ろしいくらいの高感度で、人の微妙な空気にもしっかり反応する、高性能なアンテナが、しかも大量に、私の中に勝手に作られていっていた。

自分の発した言葉を聞いた直後の相手の一呼吸で、すべてを悟ってしまうようなアンテナだった。

もはやレーダーと言ってもよかったかもしれない。

一緒にいる相手の一挙手一投足すべてがレーダーに反応して、否定されたか肯定されたかが瞬時にわかってしまう。

一緒にいる相手でなくても、何気なく向けられた視線だけで、その人の感情を読み取ることができてしまうのだ。

そのうちに、人に見られることそのものが苦痛になっていった。

できる限り目立たないように、気配を消して、自己主張など一切することもなく、ただ誰にも注目されないように、ひたすら息を殺してすみっこでじっとしていた。

しかし、サタンの罠とされていた部活や友だちとの交流を真面目に避けようとすると、仲間に入れず孤立してしまう、だからといって中学生の多感な時期に、クラスで浮いた存在になることも耐え難かった。

組織の中と外の世界とで生きていくためのバランスをうまく取ることができず、そんな日々に疲れ切っていた私に、親はまったく気付きもしていなかった。

ただ長老の子どもとして、ふさわしくない振舞いをしないように、それだけを求められ続けていた。

むしろ、組織の中では模範的な存在でいなければならなかったため、期待を裏切らないよう、必死だった。

そういう、親や周りからの期待に応えられなければ、自分には価値がないと、思い込むのに時間はかからなかった。

小学生の時には既に、(自分さえいなければみんなは幸せになれる)と思っていたから、期待に応えられない自分はもう、愛されるどころか生きている価値さえないことになる、だから生きるためには、自分を殺してでも周りの期待に応えなければならない...

そうやって自分を追い詰めていった結果、私は中学2年生で、心の底から(死にたい)と思うようになった。

結局は死ねなかったのだけども。

14歳の時には毎日、夜寝る前に、(どうか明日の朝、目が覚めませんように)と祈りを捧げてから眠る。

朝目が覚めて、まだ生きてる、とがっかりする。

今考えると、本当に悩んでいる人は、眠りたくても眠れないのだから、眠れていたということは、そこまでの悩みではなかったのかもしれない。

だが(死にたい)という気持ちは、消えることはなかった。

生まれてから14年しか経っていないのに、(この先一生、笑ったり楽しんだり、幸せだと感じたりしなくてもいいから、この先一生、心が苦しいとか辛いとか、哀しいとか痛いとか感じなくていいようにして欲しい)と、毎日心から願っていた。

私には子どもがいないからわからないが、本当に親は、気付かないものなんだろうか。

もう、問いただしても仕方のないことだし、その頃のことなど覚えているはずもないのだから、今さら聞いてみるつもりもないけれど、あの当時、たぶん私の人生でいちばん傷付き苦しみ堪え抜いたあの時期、保護者に守ってもらえなかったことは、私のこの歪んだ人間性を形作っている大きな要素となっている。