「今」のもう1つ上へ。 ~ひとまず脱・無気力へ~

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テーマは「今」の自分よりも1つ、そしてその自分よりまた1つ、と成長すること。そのための日々の記録、思ったこと、あとは普通に日記とかを書いていきます。

 
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『戦場のメリークリスマス』(1983年)

 

 

 

 

 

爆笑問題のファンならば、
「メリークリスマス!ミスターローレンス!」
というギャグを何度も聞いていると思う。

このひょうきんなフレーズって本当なの?
と思い、You Tubeでこのシーンだけでも確認できないかと、
ちょっとしたまとめ動画みたいなのを見てみたのが数か月前。

全然違うじゃん!シリアスなものとしか思えない。
これは観てみたい。CSで放送しないかな。
と調べてみたら、その翌日から上映されるというタイミング。

緊急事態宣言の自粛を経て、やっと観ることができた。



重みある表情のヨノイ大尉とセリアズが映ったこのポスター、音楽、
前振りが非常に厳かな作品を期待させる。

その点からいうと、実は物足りないなと思ってしまった。

もっともっと、立ち直れないくらい、暗い気持ちにさせられて、
最後の場面に救われることで少しはマシになれるような、
それでも暗い気持ちで席から立つのに時間を要する、
それくらいの重さを期待してしまっていた。

もちろん、重い作品ではあるけど。
ヨノイ大尉は感情を表に出さないキャラなのはいいけど、
その中でももう少し心情の変化を。

セリアズの存在感をもっともっと強調して、喪失感を大きく。

ハラとロレンスの関係性も、あの中で生まれた友情の強さがいまいち感じられずに、最後のセリフを聞くと、急かなと思った。

すると、ハラがロレンスとセリアズを釈放すると決めるに至った経緯の詳細だったり、彼らを独房に入れたことに対する罪悪感だったり、そこからサンタクロースだと言い始めた感情だったり、その時のやり取りが濃く描かれることで一回目の「メリークリスマス」が重みを増して、
二回目を聞いたときに、グッとくるものがあるのではないかなと、感じた。

ポスターから感じる厳かさが、厳かであるべく、厳かに描かれているとよかったかな。
グッときたかった。



それにしても、体験談をもとにしているということだから、
おおよそこのような出来事が実際にあったかと思うと、
それは確かに重みのあることだなと思う。

 

 

『マチネの終わりに』(2019年)

 

 

 

 

 

原作を読んだ時ほど引きずらなくて済みそうだ。
耐性ができたのかな。それとも、ほどよくカットされていたおかげか。

この映画、起承転結の「転」はどこにあるんだろう。
物語に要求される「転」は大抵、
うまく進んでいた物事が上手くいかなくなった部分に位置づけられると感じる。

過去に観たことのある映画やドラマ、そして読んだ本の多くに、
「転」で嫌な気持ちにさせられた。
無理やり「転」を作らないでほしいくらい、
物語をスムーズに進めてほしいのに、
どうしても「転」が存在する。

ドラマかなんかでこういう時、
製作者サイドが「転」を要求しているシーンを見たこともある。

起承結でいい。
無理に悪い方向に進めなくていい。



そして原作では、
蒔野が携帯を忘れたあたりの一連の部分が、
どう見ても「転」だと思う。

しかし映画内では、
ここももちろんストーリーが転じている部分ではあるのだけど、
どうももっと後の、洋子の離婚話のあたりが「転」となっているように感じる。

暗い中に光がさしたような感覚。
そして穏やかな結末を迎えることになった。

原作では確かこのあたりも、
事細かに泥沼の様相を呈して描かれて、
スムーズじゃなかったような記憶があることも、
この映画の「転」の違和感なのだと思う。

まだ数冊しか読んでいないけれど、
平野さんは情報量多いと思うので、
本ではじっくり読んで、
映画ではさらっと全体を見通しやすいサイズに収まっているのは、
良かったんじゃないかなと思う。



役を超えて、ゆり子さんの苦痛や悲しみに歪んだ顔を、
見たくないと思った。
それを見て平気でいられるのは、
「自分なら癒せる距離にいる」と思える人だろう。



それにしても、クラシックギターというのはあんなにきれいな音がするのか。
うちにあるアコギ?フォーク?
そのどちらかの区別もつかないくらいギターに疎いけれど、
父親が弾くそのジャブを入れてくるような音と違って、
音が引いて吸い込まれるような、
あの音色にはやられた。

その音から始まる冒頭が、この映画の「名作感」を思わせた。

 

 

 

 

 

『 i 』(ポプラ文庫)

 

著者:西 加奈子

 

 

 

 

 

否定の言葉が頭を巡って、自己肯定感が低い。

故に内向する。

 

この「内向」という言葉が印象的だった。

ただ「社交的じゃない」という意味ではなかった。

 

内に向けて考える。とにかく考える。ひたすら考える。

絶対に、人より考えている。誰よりも考えている。

だけど人は自分を理解しないし、自分は人を理解できない。

 

そいつが考えていないからだ。

人も「考えている」事を自分は知らない。

 

 

 

我を忘れられたら、さぞ楽なことか。

自分が裕かでない今、世界の事態を考えられない。

 

彼女の心は裕かなのではないか。

共感できる様で出来ないのは、その点の相違か。

 

 

 

 

 

友人は、

『サラバ!』

の主人公と一緒だと言っていたが、

それほど同じようには感じなかった。

 

記憶で対比すると、

歩は「自分が可愛い」

アイは「自分のことで申し訳ない」

という感情で、

反対の方向にいるのではないかと思った。