今日は、ママ友と話していて、

また、私のせいで「ひきこもり寝たきり長男」

になってしまって申し訳なく思っている

と自分の気持ちを吐露した時、

涙が止まらなくなってしまった。

 

このモードに何回かなってしまったことがあるのだけど、

自分一人だと、「ひきこもり寝たきり長男」のことは

わりと受け入れてしょうがないと思っているのだけど…

対話相手がいると自分憐れモードが炸裂してしまう。

 

それは、なぜか・・・

 

①自分憐れだということをアピールした方が、

私自身が責められないからと無意識上で計算しているから

 

②自分の内面を話すことに抵抗感がある

(私の話なぞ誰も感心がないと思っている)ので、

少し自己吐露するだけで涙があふれる

 

まあ、どっちもあるでしょう。

 

 

私の中には、まだ、長男に申し訳ないと自分を責める気持ちと

長男自体を責める気持ち、この二つは表裏一体だと思うけど、

昇華しきれていないのだろうな〜

 

特に、一般の世間の方(アウトサイダーとは無縁の方々)と話す時は、

自分の中の一般常識が刺激されるのか、

普通の世界への未練と執着からか、

私は不幸なシングルマザーですと自称した方がそっとしてもらえるからか、

泣きのアクションに入ってしまう。

 

 

私自身は私自身で、可も不可もなく自己肯定感高くもなく低くもなくと思っているけれど、

対世間で振る舞う時に、かわいそうで自己肯定感低く振る舞っていた方が、

相手も納得しやすいし、安心してオチがつくと思っているのだろうな…

 

 

そして、よく、いっぱいいっぱいになった私に

優しい皆さんは、「頑張り過ぎないでいいよ、無理しなくていいよ」

「自分軸で、自分を大切にね」

「悩みを吐き出してね、言ってね」

と言ってくれるけど、

 

私にとって、「自分を大切にする」とは、

他人とずっと一緒にいないこと。

なぜなら、他人といる時は、無意識的に他人がイメージする自分の役割を滞りなく果たそうと思ってしまうから自分の気持ちなど、どこかに置いてきて忘れてしまうから。

 

それは、エンパスでASD受動型的なもとからの気質もあるだろうし、

幼少期、私の話(気持ち)を聞いてくれる人が誰もいなかったからというのもあるし、

日本の一斉指導集団教育のせいもあるし、

他人にとって、私の話なぞ面白くないだろうという観念がついてしまったからだろう。

 

ただ、私は、読書が好きで、日記が書けたので、

自分のことや気持ちは観察する習慣があったので救われた。

 

自分一人の時は、自分の気持ちに耳を澄ませられる。

 

なので、一人でいることが、自分を大切にすることなのである。

 

 

ただ、東京で子育てもして仕事もしてという生活には、

一人でゆっくりして自分を見つめる時間は皆無だった。

 

しかも、日本で母になるということは、自分のことなど後回しにして、

家族や子どものために時間と労力を使って当たり前という価値観がある。

 

そこで、私は全部投げ出してしまったけれど、

本当は、他人と一緒にいる中でも、自分も相手もアサーティブに大切にできるコミュニケーションスキルがある人は、忙しくても、自分と相手を同時に大切にすることができるのだろう。

 

私は、ずっと、自分と相手(子ども)を同時に大切にすることができていないなーと思ったのでした。