8月武蔵野からの印象変化
8月の武蔵野公演を見て、練られた世界観、まるで別人に見えるももクロ、聞き慣れた曲たちが新鮮に聞こえる工夫など、色々と目新しいことずくしなライブに感動してツアー途中に公開されたYoutube動画を何度も見ながら「もう一度同じものを見る期待」を胸に10月武蔵野に向かった。
が、そこにいたのは、思ってたより別人ではなく良く知ったももクロだった。
ツアー前半である8月に見たももクロには確かに「ももクロではない誰か」を感じていた。あの人達は幻だったのだろうか?前回見てから2ヶ月以上間があいているので、初見の衝撃でイメージが強化されすぎてしまったのかもしれない。これについてはブログの最後にまた言及する。
全体の世界観について
今回は衣装の変化と、それに伴う世界観設定の変化を中心に見ていきたいので、以下衣装の変化とセトリを図解した。先に言っておくと今回は「カラフル衣装」のメドレー以降と「アンコール衣装」のところには言及しない。
黒衣装パート
黒衣装のドレスはQUEEN OF STAGEのメインビジュアルに沿っていて、西洋的な世界を表している。だがAnother Worldが始まる前に聞こえてくるラジオ番組では全く知らないももクロの情報が聞こえてきて「昭和98年の~」などと聞こえてくる。このことから見た目は西洋的でも、現実の西洋でも今の日本でもない、どこか別の世界が描かれているのが示唆されている。
ライブが始まる際にステージに配置された細長いモニターにメンバーの顔が映し出されるが、顔がAIイラストによって西洋絵画の概念のようなイメージへと変化していくのが「現実世界から西洋的な別世界へワープしてる」を説明しているようだ。
これらのことから、この黒衣装パートは「西洋的な世界観だが、現実とは違う別世界で、現代日本的な文化も存在している、ももクロと良く似た女王達がいる」世界とすることにした。
ラジオ番組でヒットチャートに「Another World」がランクインしているところから、この女王達は現実世界のももクロのように歌を出していて、恐らくライブ活動をしているということまで想像が膨らむ。
玉井詩織と高城れにに良く似た人たちがソロ曲をそれぞれ披露してくれる。ただしここは別の世界。それをそれぞれの楽曲タイトルの「Another World」であり「じゃないほう」が示唆している。
8月に「別人に見えるももクロ」と感じたのは、この黒衣装パートのことだった。いつもより太めのアイライン、ももクロが元々持つ「生」のイメージからは離れた笑わない歌や喪服のような衣装などからその印象を感じていた。
「4.笑一笑」と「5.Another World」の間に挟まる簡易的な自己紹介MCを、前回のブログでは「ライブ終わりみたいだから、既存のももクロライブはこれで終わり」とした。が、今回の考え方で捉えてみると「別世界の女王ももクロ達の自己紹介」という風に見えてくる。
とにかくこの黒服を着ているときは別世界の女王ももクロだ。
PLAY~Nightmare Before Catharsisまで
「このパートは死んだ後に生まれ変わり後の次の道を探している。トロッコに乗っているのはそのため。」と前回書いたが、トロッコに乗っているのは武蔵野公演のみだと分かったので、トロッコに乗ってることに意味を乗せすぎてしまったようだ。ただ「死んだ後に生まれ変わり後の次の道を探している」の解釈は間違ってないものとして進めたい。
ゴリラパンチではPLAYの中で「AとB」に使われていた「赤と青」の色にコーナーが分かれ戦っていた。AとBの道を選んだり、対決させたり、まだまだ進むべき道に迷ってるところなのかもしれない。
そして「Nightmare Before Catharsis」で混乱極まる。炎のイメージなので地獄に行ったのかなとも思うけどもあまりに不吉か。モニターには太陽を打つラケットが映っていたが、実際にももクロがラケットでカラーボールを打つ演出をしていたところなので変に深読みしないようにした。
「Nightmare Before Catharsis」は歌詞の
その名は誰なんだろう
私はどうなるんだろう
何者になれんだろう
に、全てを託したい。進むべき道に迷いに迷っているのだ。
Re:volution~リバイバル
それで、この「Re:volution」を以前は割りと前向きなパートと捉えていた。
色々進むべき道を悩んだけど、既存のももクロから革命を起こすぞ。ということが答えかと思っていたんだけども、そうするとなんか上手くHANDに繋がってる感じがしない。決心した後にまだ迷った感じの「ももクロと違う動きの影」という演出に行ってしまう。
ここでまたPLAY~Nightmare Before Catharsisまでの流れを振り返って見ると、この色々と悩む流れ、ももクロが4人になった時に夏菜子ちゃんが今後のももクロをどうするか、色んな可能性を一旦メモに書き出してみた話に似ている(2023年7月6日放送のラジオ「東京03の好きにさせるかッ!」で話されていた)。
結局このメモの答えを夏菜子ちゃんは話さなかったので、具体的にどのような答えに落ち着いたのか私達は知らない。どのような心持ちだったのかは分からないが、事実としてももクロを続けているのは知っている。
そこと重ね合わせて考えると、ここでは革命という激しい答えではなく、AかBかの道に迷って、意見を戦わせて、混乱して、革命だ!とまでなったけど、HANDで
私は私にしかなれないの知ってたはずでしょ?
と落ち着く。
だから、革命じゃないんだよと、HANDで「ももクロと影」の意見がまとまって(動きが1つになって)、そしてリバイバルで生まれ変われるのだ。
夏菜子ちゃんのメモの続きはどうなっているのだろうか。
A-rin QOS REMIX MEDLEYと、赤い幻夜
白衣装パート→カラフル衣装パート
白装束と言っても良いような真っ白な衣装で歌われる「天国のでたらめ」は、かなりストレートに、天国からこれから生まれ変わる世界を見下ろしている表現がされている。
生まれかわっても
かわらないでいて
見つけてあげるね
この歌詞の意味は、2018年に公演された「ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?」の印象が強く「ももクロ扮する4人の主人公達が生まれ変わりでバラバラになってしまった時、お互いを見つけてあげるね」という、ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?に沿った意味に捉えそうになってしまうが、QUEEN OF STAGEの流れにおいては「ももクロが生まれ変わっても、またモノノフを見つけてあげるね」と言っている方が自然だ。そうだと嬉しい。
GOUNNが和のイメージに
GOUNNでカラフルな衣装に切り替わるが、このGOUNNは音が和風アレンジされていた。また和モチーフとして番傘も登場する。扇子は調べると折りたたみ型のものは日本で発明されたものなので、これも和を表すものと捉えられる。(GOUNNは元々和風ではなく、仏教的なアジアのイメージが衣装やMVにあった)
↓下記Youtube動画は、QUEEN OF STAGEの「GOUNN」の映像ではなく、「MONONOFU NIPPON」の映像だが、最初のカットが上で書いたGOUNNの小道具を引きずっているのが確認できる。
和アレンジされた「GOUNN」から、これでもかとニッポン連呼の「MONONOFU NIPPON」だ。ここからももクロおなじみの4色カラー衣装になるし、日本ということがこの2曲で強調されているので、このカラフル衣装から「日本」だ。もうここからは「別世界のももクロ」ではなく「日本のももクロ」だ。
天国のでたらめに戻るが、モニターに写っていた球体の中に都会の風景(ビル群や横断歩道など)が見えた…気がした。これにより和世界が「昔の日本」でなく現代の日本ということを表しているんじゃないかと思う。
ナタリーにも画像があったがいまいち見えない。目を細めると横断歩道のしましまが少し見えるか。
https://natalie.mu/music/gallery/news/545072/2168758
…で、この後からが、この公演のいいところなのだが、ここから先のメドレーについては前回ブログで書いた印象から、改めて書き足したい程変わっているわけではないので、詳しくは前回のブログの、見出し「(8)あなたとももクロのいちごいちえ」を見ていただければと思う。
ももクロに別人感が無い
ブログの最初の方に書いた、今回ももクロが別人に見えなかった件にもどる。8月の武蔵野で見た時は世界観に沿って別人に見えていたももクロが、10月の武蔵野では別人ではない、現実のももクロがすごく表に出てきた感じがした。
ここまで考察した世界観設定では
- 黒衣装パートは別人
- 白衣装パート、カラフル衣装、アンコールパートはももクロ本人
こちらが主観的に受けた印象として、前回はももクロの気持ちが前半の黒衣装世界観に注力していたように見えて、今回は後半のカラフル衣装のももクロが最初から前半に登場していたようだった。
ツアーファイナルでテンションが高めだったのもあるのかもしれない。
映画ではなくライブであるということ
ここまでしっかり解釈しておいてからこんなコト言うとちゃぶ台返しだが、QUEEN OF STAGEは世界観がしっかり作り込まれているが、映画や演劇ではない。アイドルの、ももクロのライブなので、物語が伝わって感動すればいいものではなく、ももクロの良さや、客との一体感を感じられるのが1番の目的であるはずだ。
ツアーが始まってしまえば世界観を守ることやそれを伝えること以上に、ももクロがお客さんに投げかけたものに対してどういう反応があって、その反応を元に長期間に渡るツアーの中でどう調整していくかの方に重きが置かれるはずである。
ももクロが2DAYSのライブでも様々な調整を行い、同じセトリ、同じ演出でも、1日目と2日目には違うことをしていたということは、今まで何回も見てきたし聞いてきた話だ。
ツアー前半に武蔵野で見たものと後半に見たものが別のものに見える。それが演出的な意図があるのか機能的な意図なのかは分からないが、長いツアーの中で何度も調整を繰り返されていることは、今までの実績から分かる。その結果、作り込まれた世界観を越えてももクロが前に出てきたように見えた。と考えると、それはすごく嬉しいことだ。
そしてこの印象はツアーの合間にフェスでももクロを見た時に感じた気持ちにも通じる。ツアーを初めて見た時は「今後ももクロはどうなっちゃうの?」と思えるくらい別人感が強かったのが、フェスに行って「いつものももクロだな」っていう感覚になる。
フェスでその感覚を積み重ねていって、再びツアーに行った時に「世界観の中にいるももクロ」ではなく「いつものももクロ」が出てくることが、フェスで一緒に楽しく過ごした時間がきちんと生きているように感じられた。
おわりに
作り込まれた世界観に圧倒されて、まんまと似たようなセトリ解釈ブログを8月と10月に長々と2つも作り上げてしまった。もっと感想についてを分かりやすく言うべきだったか。と思っていたところにももクロの後輩であるCROWN POPの3人がももクロに感想を直接伝える動画が登場した(1:25あたりから感想)。
この感想が分かりやすい言葉でありつつ共感できるもので良くて、感想とは相手に面と向かって投げても、渡し切れるくらいの量と内容であるべきだと心から思いながら終わる。
15周年という気合が入りまくったツアーは普段と違った振り付けや、コーラスが多く、更にツアーではヘッドマイクだったのが途中に挟まるフェスでは手持ちマイクと、細かく覚えることが膨大だったに違いない。それでも世界観をきちんと表現し、その上でももクロらしさも感じさせてくることが、どれほどすごいことなのか想像してもしきれない。「女王のももクロは別世界の別人」と書いたが、現実世界のももクロも「QUEEN OF STAGE」の言葉通りの存在であることが分かり過ぎるツアーだった。
15周年おめでとうございます。