珠光から利休まで

15世紀の人物である珠光は一般に侘び茶の祖とされているが、
その生涯や事績については不明の部分が多く、
珠光の造った茶室も現存していない。

山上宗二の『山上宗二記』には「珠光は四畳半、
引拙は六畳敷なり」とある(引拙は珠光の弟子の武家茶人・鳥居引拙)。

「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図には「珠光好地蔵院囲ノ写」、
すなわち珠光好みの茶室の写しという四畳半の存在が記録されている。

それによれば、この四畳半には一間(畳1枚分の幅)の床(とこ)、
檜の角柱、襖2枚、障子4枚があり、書院風のものであったと推定される。

連歌師宗長の『宗長日記』によると、大永6年(1526年)の時点では
四畳半や六畳の座敷で茶事が行われていたことがわかる。

『山上宗二記』には武野紹?の四畳半が平面図入りで紹介されているが、
その図の注記によれば、柱は檜、壁は張付壁、
天井は野根板(杉、サワラなどの板を薄くはいだもの)で、

茶室の正面(北側)には「坪ノ内」と「竹のスノコエン」があり、
露地(坪ノ内)から簀子縁(スノコエン)に上がり、障子を開けて席入りする
形であったことがわかる。

この四畳半は北向きで窓がなく、光は北側の入口からしか入らなかった。
また、入口の鴨居が通常よりも低く設置されており、茶室の入口が俗世間を離れ、
非日常的空間への入口であることを象徴していた。


リビング