今日のタイトル、
「どうしても嫌な・関わりたくない人が、物理的に近くにいる、
おまけに、その人が、自分に話しかけてくる可能性が高い
どうすればいいですか?」
・・・という、人間関係のストレスあるあるですかね。
実際、私の引き寄せのMACO師匠の発信に触れていると、
この手の質問が時々でてきます。
で、ついに、私のところにも、そんなお題がきてしまいました。
4月から、
私が関わりたくない、一つ上の先輩が、
同じ部署に戻ってきて、
しかも、私が副グループ長をやってる分野の担当もやる、ということが判明しました。
といっても、その分野は難しく、
仕事の出来がよくないこの先輩に、そんなにそこの分野の仕事は振られないだろう、とは思います。振られたらノルマ達成できないからな。そして、今の部署は、そういう露骨な仕事割り振りをやって、「できる人」に難しいものがいくブラック部署だからな爆。
また、二人で「英語の書類作成のアドバイス担当」にされた、という・・・。
といっても、これは、「英語の書類を作った人が、文章チェックをどちらかに頼む」というもので、二人で一緒に何かをすることは基本的にありません。
で、その先輩が、私を「話し相手」とか、
「話を聞きたい人」として慕っている感があるのは、
1月末の雑談イベントで、カメラマイクONで参加してきたことや、
2月に、部署で私がしゃべったときの会に参加して、変な合いの手コメントを入れてきたことからも明らかです。
1月末にセルフコーチングしたところ、
「仕事の話を軽くする程度なら大丈夫、
それ以外の話に付き合わされるのは断固拒否、絶対にNO」と出ました。
そして、当時は、
「自分と合わない人となら、自ずと離れていくから、流れに任せよう」
と書いていました。
こちら↓
ところが、4月に同じ部署、しかもやや近しい仕事担当になってしまった・・・。
ということで、今回は、
そうなってしまった事実と向き合い、
自分の無意識調整と、今後の行動プランというお題で、セルフコーチングしていきます。
今回のように、
自分の理想とずれた出来事がもたらされたら、
自分の無意識を点検し、
理想とのずれがあれば調整し、
今後の行動を決めつつ、自分を整える。
これが、2024年の今、
大いなる宇宙が、私たちに強く求めていることです。
今日の記録が、その一例になればいいなと思っています。
・無意識の点検と修正その1~「NGライン」の洗い出し、修正、行動決め
「関わりたくない」という人に限らず、
ある人と自分との接点ができそう、
ある人が自分を慕ってきそう、
ということは、
「自分からみたその人の印象」が、
自分の内側にもあるから、それと向き合いなさい
というメッセージであることが多いです。
もっと正確にいうと、
今の自分の内側にもあるか、
過去の自分の内側にあり、それを今手放すことが促されているか
の、どちらかです。
そして、「関わりたくない」の言葉通り、
「自分からみたその人の印象」が、
自分の内側にもある、
そのことは、
1:過去の自分にあって、今、手放しが促されていること
(その要素自体を手放す と、
その要素がある人との縁を手放す の、どちらかか、両方です。)
であるか、
2:今の自分の内側にあって、今これから、それがあることを否定することをやめる(=自分に降参する)ことが促されていること
の、どちらかです。
このどちらか、あるいは両方か?を、
「自分からみたその人の印象」と、自分の無意識とを比べてみて、チェックします。
「自分からみたその人の印象」は・・・
私「一言で言うと、承認欲求BBA(ババア)なんだよな
自分を見て!という気持ちが強い。
そのくせ、主語が自分でなく、他の人の愚痴(主に子供ネタが多いらしい)が多い。
以前、私の過去の担当分野を、別の同期のそれと勘違いしてたくらい、
周りを見ていなくて、自分にかまって!ばかりだから、もう最悪ですよ
2月の私の話す会でのチャットコメント※が、
カリスマ(私)にひっついて一緒に目立とうとするゴミファンみたいで最悪やった」
※私が、前の部署での経験と、そこで得た話、そこに行くためにどんな力をつけるとよいかの話をしたところ、
このBBAは、その話の最後に、チャット欄に「今日の話は、これから(その部署)に行く人はみんな必修!」って書いたんですよ。
お前、その話、自分じゃできないくせに、何を偉そうにと、嫌悪感が湧きました。
以上、思ったままに列挙してみたのですが、
では、これから、上の太字部分を、整理していきましょう。
まずは、上の1,2の「自分にあるか、あった」に当てはまるものと、そうでないものとに分けます。
・・・って、この場合は、「NGライン」に当てはまるものが多すぎました。
「主語が自分でない」
「カリスマにひっついて一緒に目立とうとするゴミファン=満たされてない」
「周りを見ていなくて、自分にかまって!ばかり=満たされていない」
「その話、自分じゃできないくせに=言行不一致」
→そりゃ、関わりたくないわけです。
私のNGラインの「主語が自分でない」「満たされてない」「言行不一致」がきれいに揃っています。
ということで、今後接点ができてしまったら、
仕事の話は、淡々と、塩対応しまして。
それ以外にも話しかけてきそうなら、「仕事の話以外はお断りします、あなたと話してると疲れるので」と、はっきり言って、去るか、立ち去ってもらうことにします。
(なんで?(今まで雑談相手になってくれたのに、的な)って言われたら、
上に書いた、2月のゴミファンのコメントで大変気分を害したので、って言いますね)
そして、同時に、
私自身、満たされていなかった一時に、「周りを見ていなくて、自分にかまって!」になってたことがあったかもしれない、と反省しつつ、
満たされていないと、私もそうなってしまうのだろうから、
人と接点を持つときは、「満たされた」状態、周りを見る心の余裕をもった状態をできるだけ維持する!
と、改めて、決めました。
でもって、
この人は明らかに「私のNGライン」なので、
以上のアクションをやって、
この人が席を選びそうな「部署専用エリアの廊下側~中央」※とは離れたところの、
通路挟んだ反対窓際という”離島”に根城を構え、
その存在を視界から徹底的に消す、
ここまでやっても、仕事で必要なとき以外に絡んでくるようならば、
4月下旬にまた縁切り神社に行くので(3月の縁切りのお礼に)、
そのときにばしっと縁を切ればいいな、
と、縁切りの神様のご加護もあるし、と、安心しました。
「守られているから大丈夫」というやつですね。
といっても、「NGラインの人たち」とは、既に縁を切ってあるので、
自ずと、そういう状態のときには、話しかけてこないはずでもあり、
私が、「見えない力のご加護」「自分の決意」「流れ」を信頼して委ねる、
そういう力を鍛える場、成功体験を積む場である、という方向に行く可能性もありますね。
※今のところ、最初の一週間だけ座席をとってるみたいですが、まさにそういう席の選び方をしてて笑いました。
・無意識の点検と修正その2~「自分にもある要素」について
さて、ここまでで、「自分とこの人の違うところ」をしっかり区別しました。
(違うどころか、NGラインにすら入ってた・・・そりゃ、無意識に「守り力」が発動して、疲れるわけだ、、お疲れ様、私)
まずは、違いに意識を向けて、
この人と自分とを、別の存在として、しっかりと「自分から切り離す」ことをやります。
この切り離しが完了すると、
「接点持ちたくない」という嫌な感情が収まり、冷静に、フラットな気持ちになれます。(これ、凄く大事なプロセスね)
フラットな気持ちになってから、
次に、「自分にもある要素」を、この人から取り出す作業に入ります。
先に、違いに意識を向けて、「人」という存在を切り離しているので、
「人」という単位と無意識上で接点が切れ、
淡々と、「要素」だけを取り出して、向かい合うことができるようになります。
で、今回、向き合った「自分にもある要素」は・・・
自分を見て!という気持ちが強い です。
これは、今までから自覚しており、
今もこうしてブログに書いているように、
日々、自分を見て、アウトプットして自分で読んで(これも「自分を見る」)、
そんな欲求を満たしているつもり、でした。
実際、その欲求の大半は、自分で見ることで満たされている感があり、
だからこそ、人に接するときに心の余裕もできたのですが、
どうやら、自分で満たすだけでは不十分でして、
人たちの中にいて、「接点がありそう」なら、
「自分を見て!」という欲求が、自分以外の人に対しても発動するのだ、と。
そりゃ、「Youは何しに地球へ」で、こんな↓結果が出るんだから、
そこは、降参せざるをえません。
「見せつける」という大前提があるんだから、
「私を見て!」という欲求を、外に対しても発動するのが自然です。
ここに、降参なのだな、と。
そういう欲求があるから、
私が日記を書いて自分で読む媒体は、
紙や、PCのオフラインアプリではなく、オンラインのブログなのですね。
とはいえ、
外の人たちに対しては、
「あなた自身を差し置いてまで、私を見て、というのは、望むところではない」
というのは、いつも感じます。
「あなた自身を差し置いてまで」というように、
私は、私を見て、何かを私に返す人たちには、
私が関わりたいラインの「主語が自分」であってほしいと願っているのでね。
主語が自分の人は、自分自身をまず第一にするはずなのでね。
私は、
私が自分の人生ドラマを全うするのを、
見たいと思う人には、ぜひ見てほしい、
ただ、「あなた自身を差し置いてまで」見てほしくはない。
あくまでも「こういう生き方、考え方もあるんだ、じゃあ自分はこうしよう」とか、
「見てると元気がもらえるので、自分も命燃やすか」とか、
”見る人自身が自分の人生を生きる”中での、ちょっとした刺激、元気になる程度で十分なのです。
よくある発信者、タレントとかの人気商売の
「”自身を差し置いて、自身は行動せず見るだけ、コメントするだけ、お金払うだけ”のファンがつく」、
そういう関係はお断りであり、
一般的な、発信業、タレント業、プロスポーツ選手のような「見てもらう」仕事とは、ここが違います。
そこは、しっかりと線を引いておきます。
”自身は行動せず見るだけ”だと、言行不一致なんですよね。
そういう人がファンになるのは勝手ですが、
遠くから一方的に見るだけ、以外は却下です。
私との接点は、お金の支払い含めて一切なし、で。
そういう人にコメントなりお金支援なりされると、
その人の「満たされない承認欲求」のエネルギーを受け取ったみたいで、嫌です。
(あ!上に書いた「カリスマ(私)にひっついて一緒に目立とうとするゴミファン」って、まさにそれだな!
だから、嫌悪感がすごかったのか!
そして、この手のファン心理の「満たされない承認欲求を満たそうとする」闇は深いな。。。)
もし、私が、オンラインサロンのような「ファン商売っぽい発信」をやるにしても、
自分で行動する気のない人には、入ってほしくないですね。。
そういう人のエネルギーが乗ったお金をいただくのは、ちょっと・・・。
お金さんとフレンズなだけに、そこらへんには繊細に反応します。
・・・こんな風に、
私は、私が毎日丁寧に、楽しく(生命力を燃やして)生きるところを、
「自分が主語」の人たちには見てほしいが、
いわゆる「発信者見るだけ」の言行不一致のファン層との縁、接点はいらない。
と、「一風変わった、マニアックな発信者」でありたい、という
自分の欲求を認めて降参する。
なんといいますか、
「売れる」発信者業をやるタイプではないよね爆。
発信者業として売るなら、言行不一致のファンと接点がない、一方的にコンテンツを出して終わりの売り方ですねえ。
今やってるみたいに、コメント欄を閉じてブログを書くのもその一つ。
本を出す、ならいける。
ライブ配信のような、双方向のものは微妙。
あ、コメントできない配信ならいいのか。
発信者業、ではなく、
私が属する魂の共同体の「愛ベースで、主語を自分にして自己責任で生き、生命力がある」仲間たちと、お互いを見合う、という関係が、ベストですね。
発信者である、というか、私含めた皆が自ずと発信者になっている、といいますか。
共同体で、
日々、それぞれの人生を満喫しつつ、
日々お互いのことを話して、認め合い、
日々、感謝ネタとかも話す、
これができれば、こうして日記を書くのに時間とエネルギーを使うこともないんですよね・・・。
そして、「自分を見て!」も、満たされるんですよね・・・。
もしライフパートナーシップをやるなら、そういうことをやりたいんだよな、
と、改めて気づきました。
もう一つのライフパートナーシップ案として、
私の現実生活のお世話をしてくれる、マネージャーか従者っぽい人が相手で、
「私の生き様を見て、私を支えるのが自分の人生、という意味で、主語を自分にして生きている」くらい清々しい、というのもありか笑。
私の「自分を見て!」に関しては、聞き手をやってくれる、という。
そりゃ、そんなことしてもらったら、私も相手に大感謝でして、「日々感謝ネタを話す」も存分にできます。
(なるほど、だから、
仕事しなくても、ライフパートナーの家に居候していれば十分だ、という感覚があるわけで)
そして、ここに改めて気づいた今、
主語が「自分」ではなかったり、生命力がなかったり、満たされてなかったりする、
そういう人たちに「私を見て!」と、接点をもって見てもらう必要はない。
今の職場の人たちのほとんどは、そういうタイプ。
仕事上求められたら対応するけれど、それ以外はお断り。
今の職場で、「私を見てもらう」必要はない。
だから、
「私を見て」という「話しかけやすいオーラ」を一切断ち切り、
窓際の席で、自分の世界に集中して、隠居して生きよう。
私の背中を見たい人は、勝手にどうぞ。
もちろん、主語が「自分」+生命力 の道に行っているか、
これから行く覚悟がある人たち(数は少ないだろうが)は、どうぞ話しかけて接点もってください。
・・・と、しっかり、「自分の無意識を変える」ことが大事だ、と気づきました。
なので、そう修正。
以上、
自分の理想とずれた出来事がもたらされたら、
自分の無意識を点検し、
理想とのずれがあれば調整し、
今後の行動を決めつつ、自分を整える。
というエピソードをお届けしました。
すっきり自分のことを整理して、
降参して、新たな自分のイメージを決めなおせたので、
大きな収穫でした。