乙女座満月の時期に、
「家系という共同体の中で生きる」ことから、自身を切り離した私ですが、
その決意に至るまでに、
今まで学んだ教えからずれるのでは?
人として幸せな方向へ、魂の幸せへ向かう生き方なのだろうか?
と、葛藤が出つつ、それを解消していきました。
そんなお話を、今回、します。
本当は、老子がいうように、学んだことを全捨てして、自分の本心だけに沿って楽に生きるのが、ベストなのでしょうが。
私の中で「生き方が下手」という自覚があるゆえか、
運命学とかの何かを、いつも「師」として持つクセがあるゆえか(これは印星過多のサガですね)、
こういう葛藤も含めて、自分なのだ、ということで。
余談ですが、老子が「捨てなさい」と言っている、「生きる上での小賢しい智恵」というのは、主として「儒教・道徳思想」のことを指します。
老子自身の教えの道教思想や、それがベースの算命学までも「捨てる」という意味なのか、少し謎ではあります。(自分の教えの中で、「生きるための智恵は捨てなさい、何なら、自分の道教の教えも、捨てちゃっていいよ!」なんて言っているなら、相当懐が深いですね)
・「家系、先祖を大切にする」話
算命学の高尾宗家のお話の中に、
おそらく東洋思想がベースであろう、「家系、先祖を大切に」という話は、多く存在します。
・六親法:人は家系という共同体の中で生きる、という前提がある
・先祖の墓参りを大切に、先祖への感謝を大切に:天中殺期などの動乱期に、禍を少なくする処世術として、よく出てくるお話。
・親を大切に:玉堂星が「適量」(私のような印星過多ではない、という意味)ある人の開運アクションの一つ。
また、北方(親、目上)の干支を持ってる人も同様。
・男女で子供を作るとき、
肉体を作るのが陰の女性の役割で、精神を作るのが陽の男性の役割。
私たち人が存在しているのは、両親はもちろん、人を作るのを代々やってきたご先祖様たちのおかげである。
ここら辺が引っかかって、私は、
家系を大切に、って、家系の共同体に属して、その共同体を大切に、ってことなのか?
「私が属する共同体に、「家系の共同体」はありません」
なーんて言おうものなら、恨みを買ってしっぺ返しが来るのでは・・・?
と、少し心配になったものです。
・先祖、両親に、「今の私がいる」ことに感謝はするが、
その人たちがいる共同体には属さない
私が至った領域が、これです。
両親を含めた先祖たちのおかげで私がいることに感謝する、
これは、間違いなく真っ当な話です。
ですが、
感謝するからといって、共同体に属さないといけない、
感謝するからといって、その恩を返そう、と思って、共同体に属します、
共同体の中で生きることで、あなたたちに恩返しという形で貢献します、
という話は、成り立たせなくていいのだな、と。
ある共同体に感謝をすることと、
私の魂の幸せのために「感謝対象の共同体に属さず離れ、別の共同体をつくる」ことは、何も関連性がないのです。
たぶん、私の肉体に染みついてきた、母方家系の価値観は、
「先祖に感謝し、その恩返しとして、家系の共同体に属し、家を支える存在として、共同体に貢献する」というものだったのでしょう。
つまり、先祖に感謝する=家系の共同体に属する と、両者を勝手にイコールで結び付けてしまっていた、と。
実際、みんな、専業主婦をやって、一家の中心的存在でしたからね(夫は仕事で家にいない、というやつ)
そして、元母親は、自分の理想を捨てて、家系のために、家にこもって専業主婦やってた感があり、そのストレスを全部私にぶつけていたんですよね・・・。
共同体に属しているのだ、という前提があって、貢献欲が生まれますからね。
この家系の肉体を受け継いだ女性、特に長女(私も長女です)は、
無意識のうちに、家系という共同体の中心人物なのだから、
家系という共同体に属するのが当然であり、
家系で継がれた人の縁の中で生き、
自分の魂の意志よりも、家系に身を捧げて生きるのだ、
というプログラムをも、引き継いでしまっていた・・・。
で、私の魂は、そのプログラムに合っていなくて、
だから、高校生の時点で既に、「家庭を持つのは絶対に嫌です」と、「家系に身を捧げる」のうちの、「家族を持って次の代を作り、家系に献身する」部分は、まず最初に拒否した、と。
ところが、ここで終わってしまうと、まだ、プログラムの完全拒否ではなかったのです。
家系という共同体の中で生きることを拒否して、そこから離れることが「完全拒否」です。
物理的に距離を置くのみならず、
精神的にも距離を置くのです。
今までの私は、精神的には、まだ、家系という共同体の中に属してしまっていたのでしょう。
だから、たとえ、家系の人たち自身から距離を置いても、
精神的には、「家系の共同体」の中にいて、その「家系の共同体」の引力ゆえに、親のような、家系にいる人たちに近しい人たちと、物理的な接点ができてしまっていたのです。
ということで、
精神的にも距離を置き、
たとえそれによって、先祖たちに嫌われ、先祖たちからの恩恵、守りがなくなっても、それはそれで構わない、
先祖たちに、私を応援してもらわなくても、構わない。
と、ハラを決めました。
母方の家系という共同体とは、完全に、精神的にも絶縁です。
父方の家系という共同体からは、絶縁しなくてもいいです。
あちらの人たち、父親以外の兄弟(叔父)とは話してて居心地よかったですし、
私の魂の邪魔どころか、味方な気がするんですよね。
父方の両親とも、自立していて、病気で苦しんで周りに迷惑をかける、ではなく、好きなことをやって大往生、でした。祖父は、大好きな缶コーヒーを買って帰る途中に、車にぶつかってしまい、「これからコーヒー飲むぞ」というワクワク感が最期の感情という、幸せな終わり方。祖母は、「終活」が完璧で、老人ホームの資金や葬式資金まで全て自分で用意し、そのホーム資金があと少しで尽きそうなときに、お風呂で転んでPPK(ピンピンコロリ)でした。まさに「人は、持っている財産を使い切るときが寿命である」を体現・・・!
また、叔父たちも、自立していて、定年で仕事を辞めた後も楽しく生きています。
あれ、これ、私の理想の生き方だな・・・。私の魂と、ちゃんと親和性あるな・・・。
父親だけ、母方の家系寄りの異端者だったんだな・・・。
また、私の今の名前は、苗字はもちろんですが、下の名前も、父方の祖父母がつけてくれたものです。そこに母方の家系の要素はないのです。
なので、父方の家系の共同体の中には、まだ、私は精神的に存在する、
それが、自身の才能と名前(氏名は使命、ですし)を与えてくれたことへの恩返しですね。
こう捉えると、魂にぴったりで、一番、私にはしっくりきます。
母方の家系の共同体から絶縁して自分を切り離し、
徹底的に絶縁し、恩恵は一切いただかなくて構いません、と。
空いた分の「共同体縁」として、
「私の魂を含めた、内側の色んなパートのチーム」の共同体を作ります。
自立して生きて、時に協力し合い、支え合う、
そして、互いのパートをリスペクトし、愛ベースで接する、
そんな共同体です。
そして、その共同体に所属し続けます。
まずは、私一人で、理想の、属したい共同体を作り、そこに属するところから、です。
なるほど、だから、私の自愛力や、「自分のために頑張れる」パワーが強いんだな、と、これを書いて納得しました。
「人は自分のためではなく、他の人のためだからこそ頑張れる」という話は、
共同体意識の中の共同体にいる他の人のため、ということなのでしょう。
私の場合、共同体意識の中にいるのは、自分の中の色々なパートなので、
共同体意識からくる「人のために」の貢献感は、そりゃ、自分のために湧いてくるわけです。
そして、ライフスタイルにおいて、他の人も、その、私の色んなパートがいる「共同体」の中に入れるよう、オープンマインドで、場所を空けて、扉を開けておく、それが、これからやることなのだな、と。
私と同じように、自立して愛ベース(これからそうなりたい、でもOK)なら、
きっと、ここは、居心地いい場所ですから。
そして、逆に、依存したい、自分さえよければ、支配的、とかだと、きっと居心地よくないですよ、と笑。
・「先祖、家系一族の共同体に属さない」生き方は、運命学的に「有り」なのか
はい、これが、今回の話のメインです。(前置きで話が長くなりすぎた、、)
改めて、上に書いた、「先祖、家系を大切に」の、算命学でのお話を、よーく見てみると、
どれも、「家系一族の共同体に属しなさい」とまでは言っていないのですね。
そりゃ、共同体に属することは、「先祖、家系を大切に」のアクションの一つではあるのかもしれませんが、
「属しなさい」という強制は、ないのです。
また、色々な生き方のお話を振り返ってみると、
家系とのかかわり方、生き方のタイプの中には、「駆け落ちして大成」するような生き方のものもありまして。
・・・と、家系一族の共同体に属さない生き方も、算命学は、認めているのです。
ただ、この、「駆け落ちして大成」という、家系を捨てる生き方については、こういう注釈がついています。
駆け落ちという、家系が認めない相手を選んで一緒になり、家を捨てることをするならば、
家系から離れるということを貫くことが大切です。
例えば、駆け落ちしたのに、親に経済的援助を求めてはいけませんし、
親の財産を相続したい、というのもいけません。
また、「家系から離れる」ことになるので、
自分たちで新たな家系を作り、子孫繁栄させよう、というのも不自然です。
「家系から離れる」生き方なのですから、「家系」という世襲の概念から離れ、一代限りの繁栄になるのです。
もし子供を作っても、女の子になる(つまり、自分たちの家系は終わる)か、子供にも駆け落ちされるか、のどちらかになります。
どんな生き方にも良い悪いはありませんが、
どんな生き方でも大切なのは、「その生き方を徹底し、逆にいかない」一貫性です。
一貫性がある生き方なら、たとえ悪人的な生き方でも、大成し、見事な人生になります。
と。
ちなみに、駆け落ち=悪人的な生き方、ではありません(ここはしっかり補足しておく)
ということで、
家系という共同体から離れるなら、徹底的に、物理的にも(特に、経済的に)、精神的にも、離れるとよし!
そして、新たな家系を作るという欲を捨て、一代限りの生き方を全うしなさい。
というのが、算命学視点での結論です。
私は子育て、つまり、新たな家系を作る気は毛頭ないので、その点でも、家系という共同体に属するのをやめ、自分を切り離すのは、ぴったりですね。
(裏を返せば、自分も家庭を作り、家系を反映させたいなら、
どうしても、家系という共同体に属する道になりやすく、
家系の、両親のような人たちとの縁の中での家庭づくり、になりがちで、
それが、生きるということの縁、因縁である、という話なのかもしれません。
ある意味、恐ろしい話です・・・)
では、占星術のサインの世界の視点では、どうかといいますと。
家系の共同体に属する、に近しいのは、「継承と変容」の蠍座ですが、
ここでは、
誰かから何か(財産とか)を受け取るということは、
その誰かに尽くし、共同体として生きたことの対価である。
(だから、財産とかを受け取る、というのは、実は、こういう対価の苦しみと引き換えであり、財産を受け取ったから楽、というのでは全然ない。)
という話が出てきます。
ただ、これはあくまで、遺伝、肉体の継承といった「人として生まれる」以外の、後天的なもの、外のものの受け取りの話です。
遺伝、肉体の継承の話は、牡牛座で出てきますが、
牡牛座の世界では、
親から才能や肉体を受け継いだことに感謝する、
という話はありますが、
親や家系の共同体に属する云々の話は、一切ありません。
そして、算命学でもよく出てくる「先祖や親に感謝」は、蠍座というよりは、牡牛座の方がベースでしょう。
「親に感謝」というと、家庭という共同体に属して育ててもらったことに感謝、という要素も入ってくるかもしれません。この共同体に属する要素は「蟹座」ですが、興味深いことに、蟹座でいう「共同体」は、「家族」「家庭」という話ではなく、単に「心が安らぐ、安心感を得る場所」としか定義されていないのです。
現に、蟹座のサビアンの世界をざっと見渡しても、家系ネタは見当たらないようです。
しかも、牡牛座→双子座→蟹座 の流れからして、蟹座でいう「共同体」は、自身の感性が外に関心を持って、知性で知りに行って出会った外との関係であり、「家族」「家庭」に限ったものでないことは、たやすく想像できます。
ということで「共同体」の世界を語る蟹座にすら「家系の共同体に属そう」なーんていう教えは、全くないようです。
・・・私の今までの解釈(そして、おそらく、肉体に染みついたプログラムの解釈)って、上に書いた、蠍座の話と、牡牛座の話を、ごちゃまぜにして曲解したものだったんですかね?笑
ということで、
家系の共同体から、離れたければ、離れてよし!
ただし、それならば、
「離れる」を徹底的に、一生やり、「家系」という世界からも縁を切り(算命学の教え)、
家系の共同体の代わりに、「心が安らぐ、安心感を得る場所」である、何らかの共同体に所属しよう(蟹座の教え)、
という話ですね。