17日の記事↓を書いてから、心が混乱しました。

 



 

今まで、親のいいなりで生きてきて苦しかった、

その苦しさをやめて、楽に、いきいきと生きるために、引き寄せやら脳科学やら運命学やらを学び、

自分の意思で理想や目標、ビジョン・ミッションをたてて、それを実現していく生き方で充実感がすごかったというのに、

それは「本当の自分らしさ」とは違った、と。

むしろ、「親のいいなり」だった昔のような、「環境に流されていた」生き方の方が、「本当の自分」の生き方だった・・・!?

 

すごい。これはすごい。

いきなり隕石が落ちてきて頭かち割られたくらいの衝撃でした。↑の記事書いたときは。

 

といっても、心の混乱はそんなに引きずらなかったです。

受容が速かったのと、この記事を書いてから夜寝る前に、改めて、それに気づくきっかけとなった元ネタの、「木星、火星、土星」に関する占星術の本を読み返したのが大きかったでしょうか。

 

今ここ、の、本を読むことに集中し、気持ちが切り替わったので、

混乱は全くせず、そのあと普通に寝ました。

 

すると・・・なんということでしょう、

上に書いた記事の言葉と合わせて、今までの自分の振り返りが、寝ている間に行われた模様です、、

 

朝起きて、タイトルどおり「環境に流される生き方・2.0」(2.0は、バージョンアップという意味です)という情報が降りてきたので、今、こうやって記事にまとめる次第です。

 

「環境に流される生き方」は、大人の人生の本分といっても過言ではない、「仕事」に関するものです。

仕事以外は、自分の理想ややりたいことを素直にやっていく、でいいかなと思います。

「仕事」といっても、生活費を稼ぐだけの仕事、では、もちろん、ありません。

「自分の人生の役割を体現する仕事」、「仕事で自己実現・本来の自分で生き、豊かなお金が入ってくる」というニュアンスの「仕事」です。

なぜ、このような「仕事」に関するだけの話かというと、

自己実現、自分の役割、というのは、

それがあることによって、誰かの求めに応えることができるし、

そうやって応えるのが、人の社会という自然界で、自分が果たす役割であって、

その役割がないと、自然界が自然のままにならないからです。

自然をきれいにするために、一人の人としての自分がやる任務、とでもいいましょうか。

そう、他の人などの存在が大きく絡んでくることだからこそ、本来の自分で生きる必要があるのです。もともと、全ての人が「本来の自分で生きる」ことを前提として、それで自然界がきれいになるように、天(神様?)が、人に才能を与え、人を環境に配置しているのですから・・・。

(一方、このような「仕事」以外の、食事や睡眠、遊びなどは、「仕事」ほど、自然界に与える影響は大きくないです。だから、自分の理想、やりたいことを素直にやっていっても、さほど悪いことにはならないのです。)

 

そして、私の場合、「自己実現」「本来の自分で生きる」ということが、

「受け身・幸運体質で生きる」ということであり、それはつまり、「環境に流される生き方」である、という話です。

 

★なので、この「環境に流される生き方・2.0」は、私のような「受け身・幸運体質」の人にしか当てはまらない話ですよ!これとっても重要。

自力開運タイプ(典型例は、算命学の命式で印星がない人)は、真似は厳禁です。

こういう生き方、いわゆる自己啓発っぽくなさそうな生き方もあるんだな、と、参考程度に見てください。

 

 

・(大前提)そもそも、仕事の枠の理想がない

以前この記事↓で書いた、私の理想の生き方は、

 

 

よく頭と体を動かして

毎日くたくたになり

おいしいものを食べて

よく寝ることです。

 

それができる健康体と

それができるだけのお金の巡りがあれば十分です。

特に「頭」は、たくさん使いたい、

そして、全ての活動を

好きなだけ、満足いくレベルでやりたい

 

こんな話なわけですが。

改めて、眺めてみると・・・もうお気づきでしょうか。

 

仕事っぽい要素の自己実現ネタが、一切無いことに。

 

「仕事っぽい要素」とは、

他の人、外に、何を提供したいか、

ということです。

「好きなことを仕事にします!」すらないし、

学んだことを伝えたい、とか、こんな人を助けたい、とか、こんなものを提供したい、こんなことで貢献したい、とかの、仕事っぽい概念が全くありません。

 

具体的に提供したいものはもちろん、

何かを伝えたいとか、好きなことをやりたい、とかの、

抽象的なアイデアすらも、ありません。

 

これに初めて気づいた当時は、

そうか、仕事っぽい要素のネタがないってことは

仕事は、人生の第一優先じゃないんだな、

だから、辞めたいときに辞められるようにしておこう、

そして、今の仕事も、「頭を使う余暇活動」としてやろう、

と思っていたのですが。

 

今、別の深い意味に気付きました。

 

「仕事」の理想がないのは、至極当然である。

なぜなら、

環境から与えられたり、求められたりしたことを、仕事にする、

それが、受け身幸運体質というものだからだ

だから、「仕事」の理想は、無くて当たり前。

 

 

逆に、「仕事」で、「これをやる!」と、自分で何か新しく枠を作ってしまうと、

その枠は、長期的にはうまくいかない、ということです。

勤め仕事を辞めて、身近な環境に引きこもり、そのときに出てきた「やりたいこと」をやる、

はたまた、

他にやりたいことが出てきたから、起業して、今の仕事を辞める、

という、「自分からやりたいことが出て、それを仕事にする」というのが

起業や自己啓発あるあるなのでしょうが。

それは、私には全く合っていないということです。

 

今のような、どこかに勤めて、頼まれた・命令された、つまり求められたことをやる、というのが、ぴったりなのです。

最初は違和感があっても、いずれ自分が「合っている」と感じるようになる仕事が求められるし、

合っているから結果も当然出るし、、、

 

もし、勤めていないか、今の勤めを辞めた後でも、

どこかの環境に属して、自分のキャラを表現していれば、

それに合った、何かの求めがどこかからやってくるから、

それに応えればいい、

「仕事」、つまり、何かのサービスの提供という形で応えるなら、そのときは起業なりどこかに雇われるなりする。

 

ということなのです。

 

起業するにしても、

自分から「これを仕事にします」と宣言して起業するのではなく、

例えば、

・今のブログを書き続けていたら、こんな仕事依頼が来た。

だから、それに応えるために起業する。

 

・友人から子供の家庭教師を頼まれた。

だから、「家庭教師」の業をやるために、個人事業主になっておく。

 

みたいな感じで、「求められたことを実現するために、起業という手段がある」にすぎないのです。

 

 

 

・仕事に関する、自分の「理想」「やりたい」は、外から与えられた「仕事の枠内」で発揮する。そして、発揮する必要がある。

前の項目に書いたように、

私の「受け身幸運体質」は、仕事の枠に関して「理想」「やりたい」は要らないのです。

持ってしまうと、「そっちじゃない」と、どこかで詰まります。

 

だからといって、与えられた仕事を何も考えずにこなすだけで

自分の「理想」「やりたい」が全くいらず、従順でいいか、

単に、求められるノルマの数字だけ出していればいいか、

というと、実は全くそうではありません。むしろ、逆です。

 

「仕事の枠内」で、自分の「理想」「やりたい」を打ち立てて、

それに向けて、自分の才能を存分に発揮しなさい、

それが、あなたの使命であり、自然界のために必須だ、と。

 

自分の才能を存分に発揮することで

他の人が同じような仕事をやったら出せなかったであろう成果が、自ずと出るのだから、それを出しなさい、それがあなたの使命です、ということです。

 

例えば、今の部署の例でいきますと、

前の部署にいたときに、「次は元・天職部署に戻って、今得た成果を還元するぞ!」という理想を立てるのは、「仕事の枠」を自分で決めることだから、これはダメ。

今の部署に行け、の命令に素直に従い、「仕事の枠」には従いますが、

そこで、この案件をやってくれ、と頼まれた案件は、私流・仕事の片づけ術(合理的手抜き術)で、好きに、やりたいようにやっていい、ということです。

それによって、部署全体からみれば、他の人がうまくさばけず時間がかかる仕事を、引き受けてうまく対応してくれたのだから、「他の人には出せない成果(この案件の出来+部署全体の成果アップ)が出た」のです。

 

他、部下の指導で、

「この部下を指導して」という「仕事の枠」の中で、やりたいようにやりました。

具体的には、私の人間観察力を駆使して、部下を観察し、仕事の進め方改善案を提案しました。

すると、管理職の皆さんからなんと言われたかというと、

「自分が、この人に対してなんとなく抱いていたことを、言語化してくれてとても助かった、よくわかってすっきりした」

「過去の指導者のみなさん(そして、今の指導者のもう一人のメインの方)が、今まで、誰もそれを指摘してこなかったのか・・・なんでそうなってしまったのか・・・(怒りと悲しみ)」

と。

これ、私が異動して指導に関わらなかったら、もっと悲惨な状況になっていて、

私が入って、枠内でやりたいようにやったからこそ、それを食い止める成果が出た、と。

 

どっちも、私が、才能発揮による工夫を何もしなかったら、終わっていた(オワコンになっていた)ことでしょう、、

 

 

こんなふうに、受け身なのは、「枠を与えられること」だけです。

例えるなら、住む家は与えられる、住む場所は自分の希望が通らない、

でも、そこでどうやって生活するかは、ただ周りに流される生活ではダメ。

自分の理想をたてて、やりたいようにやるのが必須で、その「生活」が、自分らしさ、自我の望みの発揮の場だ、と。

 

 

「仕事の枠内」で、やりたいようにやり、

そのために、理想や目標を立てて、それに向けて力を発揮するよう、自分を鍛えて行動する必要がある、

私の場合、それをやるために、自己啓発・脳科学・運命学を学び

「自分を知り、主体的に生きる」生き方ができるようになることが必要だった、

ということなのです・・・。

 

そして、それをやるために、自我は捨てる必要はなく、

「枠内で」自我を発揮すればいい、

むしろ、自我がなくなったら、それはそれで、合わないことを無理強いされかねない、と。

自我を押し出す、という要素が「枠内で」必須なのです。

完全に従順になってはいけない、ということです。

 

 

・自我のバランス調整、自我の出しどころ

・・・ここまで書いてきて、思いましたが、

なんだか、めちゃくちゃバランス調整が難しいこと書いてますね、この人。

 

自我を押し出すだけでも、押し出さずに従順に流されるだけでもダメで、

押し出しどころを選んで押し出し、そうでないところではあっさり自我を捨てなさい、と。

状況判断と駆け引きが難しい。

 

ところが、今までのことを思い返すと、

このバランス調整に、随所で成功していました。

「仕事」ではなく、「親のもとで、親の命令に従う」ことでの話ですが。

 

といっても、人は家系の中で生まれ育つものですから、

「親のもとで育つ」、私の場合は、支配型毒親だったので、「親に逆らえない」があったので、その命令に従うことは、ある意味、「自己実現」の一つのステージのようなものです。

なので、今まで書いてきた「仕事」に近い概念でしょう。

 

成功例:

・大学進学

親の命令という枠「東大に入りなさい、特に理III」

→いろいろつついてみたところ、

東大以外の大学がダメで、東大に入れば学部は何でもよさそうだった。

なので、「医学部」とかいう、想像するだけで体が拒否する学部は却下し、もともと興味が高かった化学系の進路にした(そして薬学部へ)。

「東大」という枠内で、学部は、自我を押し出して勝手に決めました。

それが自分にとって最善だったのは、この後の今の仕事のことを考えれば明らかです笑。

なにせ、この学部内イベントで、今の就職先のことを知ったのだから・・・。

 

・就職

親の命令という枠「国家公務員」

→国家公務員という枠の中で、一つだけ「ここなら行きたい!おもしろそうな仕事だ!」と惹かれるところがありました。もちろん、そこを第一希望にしました。

なので、国家公務員の官庁訪問と、回る予定の官庁は親に伝えましたが(その中の第二希望が、親の希望の官庁)、

第一希望の官庁の手ごたえがよかったので、親に相談・報告せずに勝手に進め、内々定までいき、親には事後報告するだけにしました。

当然、「なんで(第二希望の、親自身がいってほしいところ)にしないんだ!家族会議やるよ!」とか言われましたが、速攻で断って却下しました。

親は、先に、まさに上に書いた「大学進学」のことで、この人にはいくら押しても無理なテリトリーがあると察したのか、あっさり退きました。

もちろん、親自身の「国家公務員」という希望は叶っているから、あっさり退いたのだと思います。

学部決めのところで、中学のときから、学部決めの高2・高3あたりまで、ずっと「医学より化学」と主張し続けて本当によかったです。

 

 

・・・ということで、うまく言語化はできないのですが

「大枠」には、自我を捨てて素直に従い、

「枠内で」自我全開で好きにやる、理想や目標を立てるなどして才能を存分に発揮する、

この両方をやるために、「どこまでが大枠か」を見極めて、押し引きをする、

という話でした。

 

大枠の中で押すからこそ、「自我を出す・表現する」力が必要ですし

私の算命学の命式は、旺の十二大従星や自星はないものの、天恍星が一番エネルギーが強く、身旺か身弱か、の分類では、身旺に入り、ある程度の「押し」に合ったものとなっています。

よくわからんが、まさに「学部決め」のエピソードどおり、高校生程度の精神の「押し」ならいいよ、ということですね(何

 

 

話が長くなりましたので、今日はここまで。明日に続きます。