今日の話は、算命学で学んだことではありますが、私自身まだ消化しきれていない話です。
そして、なかなか重たい話です。
なので、本当に読みたい人だけ読んでくださいね。
(この記事に限らず、読みたいときに読んでくださいね!)
才能…つまり、与えられた星を燃焼し、消化するのが、生きるということです。
そして、自分でガンガン燃やして、天才級と言われる活躍を、運気の大波によらずに(つまり、才能発揮チャンスといわれる天中殺期間などに限らず、長期にわたって)燃やしていく人もいます。
こういう人を、算命学的には「才人」といいます。
(私の考える「才人」の定義はまた違います。あくまで算命学的には、です)
才能ある才人のところには、その才能の出しどころだ!と言わんばかりに、困難が次々とやって来ます。
あるいは、自身で高い目標を立てるなどして、自ら困難を作り出すこともあります。
そして、才能を使って、その困難を乗り越えます。
その過程が社会貢献に勝手になる、
これが才人の生き方です。
他方、そこそこ、人並み程度の才能を持ち、
現れる困難はさほど高くなく、
平凡に働く程度、など、ほどほどに才能発揮する人たちもいます。
才人と比べると、さほど苦労しなくていいということになります。
ただ、自身の星をどれだけ燃やすかというと、才人よりもずっと少ないでしょう。
これは悪いことでは全然なく、それが合っているのです。
以上は個人単位で見た話ですが、
人は一人で生きているのではなく、
少なくとも、家系に生まれ、家系の中で生かされている存在です。
そして、どこの家系にも、「才人」になれるだけの才能が秘められており、
それを代々に渡って燃やし続けることが、家系の存在意義なのかもしれません。
と、いうことで
自身の才能発揮力が人並みならば、
人付き合いを重視するし
守備・伝達本能を
家系の才能の継承に使う
という生き方になっているのが、
いわゆる「結婚して家庭持ちたい、子供が欲しい」と望む人の、魂レベルでの真の欲、というか、業(カルマ)消化という義務を果たすことなのです。
言い方を変えれば、
ある家系に生まれるということは
その家系の才能が詰まったバトンを受け取るようなものです。
バトンは、才能を燃やし切ればなくなりますが、そうでなければ、自分では持ったままにできない(死んでも、魂として持っていけない)。
だから、自分でバトンの才能を燃やし切れないならば、子供を作って、子供にバトンを託すことになるのです。
実際、天才の人の子が天才になることは少ない(私は聞いたことないです)ですし
天才の人の両親は平凡な人が多いように思います。
以上は、家系に生まれた凡人の話です。
では、天才の場合はどうでしょうか。
…と、ここで断っておきたいのですが、
正直、「平凡」(凡人)と「天才」(才人)との間に、明確な境界線はないと思います。
どれくらい、家系の才能を燃やすかで、
燃やす程度が多いほど天才寄り、
少ないほど凡人寄り、という話。
天才でも子育てしてる人、いますからね。
自分でも家系の才能を燃やして消化するけれど、残りは子供に託すということだと思います。
というわけで、ここからの「天才」の話は、私のような、子育てしない人の話だと思って読んでください。
天才の中でも、特に才能が強い人は、
だいたい、人付き合いが苦手です。
特に、家族関係のような、深い付き合いは苦手。
天才は、人と違うところが多いから、天才に見えるわけでして、
それはすなわち、深いところまで自分を理解してくれる人が現れにくいことを意味します。
少なくとも、違いを認め、自分を投影せずに人を見ることができないと、天才の心の動きを理解することは難しいでしょう。
…というだけで、相当の人間力がないと、天才を理解しようとすることすら難しいですね。
それゆえ、天才は
周りがどう思おうと勝手であり、
自分で自分をわかっていればいい
という生き方になりがち、つまり、孤独になりがちです。
孤独の方が、圧倒的に楽なのです。
マイペースで生きられるし、自分のことに集中できますから…。
ここまでくると、家庭、ましてや、子供を持とうなんてモチベーションは起こりにくいですね。
天才は、自分の面倒を見るのに日々忙しいのです。
子育てのように、他の人の面倒を深く見る余裕はないのです。
そして、その裏返しとして、
家系のバトンを渡す人がいないので
すべて自分で燃やしきり、使い切る
ということをやっているのです。
これがまさに、才能発揮という活動なのです。
ふつう、好きなことをやるのは、ワクワクして楽しいですし、やろうと思えばいくらでもやれる!というときもあるでしょう。
私の解釈ですが、人は、人生で困難なイベントをやるときにこそ、「いい感情」をそこに貼り付けることができる生き物なのだと思っています。
家系云々、とか、カルマ(業)とかの話になると、苦しくなりがちですが、
それを、「やってて楽しい!やりたい!」というワクワクにリフレーミングして、幸せを感じているのです。
(他、結婚や家庭持ちは面倒だらけですが、
これまた「家族が好き」でリフレーミングしてうまくやってる人が多いでしょうか。
「好き」という感情は、人生の業をやるためにあるのかもしれません。)
人間ってほんと賢い生き物だなあと思います。
ただ、自分一人だけで、親世代から受け継いだ才能のバトンをすべて燃やし切るのは、並大抵のことではないでしょう。
実際、算命学には「家系を終わらせる役目を持った、才能溢れる型」という命式があるらしいですが(元SMAPの中居さんがそうだとか)、それが一番パワフルです。
その命式に当てはまらなくとも、独身の天才は多くいます。
そして、そんな天才に共通している家系構成があり、それは、他に兄弟姉妹がいて、そちらが結婚し、子供に恵まれているのです。(有名人で、50歳以上で独身の人をみてると、そういう人が多かったです)
おそらく、親から受け継いだ家系のバトンを兄弟姉妹で分け合い、子無しの人は、自分が燃やせる分だけもらっているのでしょう。
そして、バトンを燃やし切ったら引退するけれど、兄弟姉妹の家との関係は良好なままの人たちが多いので、引退後も孤立せず、甥や姪に、兄弟姉妹共々面倒を見てもらえる(べったり介護ではなく、介護サービス手続きなど、物理的に必要最低限のことをやってくれるという意味で)のです。
自身は独身ゆえ、おそらく子持ちの兄弟姉妹よりお金が溜まってるので、金銭面では自分が兄弟姉妹を助ければ、ギブアンドテイクが成り立ちます。
家族構成って、ほんとうまくできてますね…。
以上、算命学でいう
「才能を人のために発揮するということは
業の消化である」
という話を、私の解釈を交えて書いてみました。
もちろん、家系のバトン、もとい、業を燃やし切らずに一生を終えてもいいと思います。
ですが、終えるときの満足感が違うでしょう(燃やし切らないと、後悔、不完全燃焼感、不平不満を残すのではないかと)。
また、「自分には兄弟姉妹も子供もいないけど、そんなに才能を燃やした覚えはない」という人もいるかもしれません。
特に人生に不満や後悔がないのであれば、おそらく、人生のどこかで苦労するなどして、無自覚に燃やしているとか、元々持ってるバトンの量が少なく、燃やし切っているかのどちらでしょう。
なので、自分の感覚が「満足感」「安心感」ならば、そのとおり安心して全然いいと思います。
少なくとも、自分より他人を優先する生き方を少しでもしたことがあれば、それなりに燃えているのですから…。
才能発揮、自己実現というと聞こえはいいかもしれませんが、結局のところ、才能発揮や自己実現は、おのずと、他人のためになるものです。
そして、他人のため、自分より他人を優先する、ということが、業を燃やす(家系のバトンを燃やす)ということなのです。(これは、観音経の教えでもあります。この教えを才能発揮と結びつけるのが、算命学の世界かなと。)
だから、「人のため」になりがちな人が多いのですね。
才能発揮や自己実現だと、自分に集中したら間接的に人のためになるのであって、
その方が自分も幸せだから、そっちが楽だという、それだけの話。
ただ、この「楽」も、一つの価値観にすぎません。
燃やす必要のある量が少ない、凡人に近い方が楽だと感じる人は、そういう生き方を選んでいるでしょう。
また、「自分より人を優先」の方が楽だと感じる人は、そうしているでしょう。
子育ては、「自分より人(子供)を優先」ですし、子に家系のバトンを渡して、自分の燃やす量を減らせるので、グッと楽になる…と感じている人も多いことでしょう。
人の生き方に普遍的な正解はなく、
どの「人のため」を選んでもいいのです。魂によって正解(今世でやろうと決めている生き方)は違います。
だから、人にあれこれ言わず、自分の生き方に集中し、自分にとっての正解を選ぶことだけに意識を向ける、これに尽きます。
結局のところ、人は人のために生きるよう、神様が人をつくったし、そう生きるよう、業というものを与えているのではないか、ということです。
それなら自分のためでもあるのがいいよね!というのが、自己実現。
自分のためにならず、人のために自分が色々と被るのは、自己犠牲。(これも業を燃やす方法の一つにすぎないのですよね)
それだけの話です。
私は、大運を都合よく解釈し、50歳までにFIREするぞ!と決めました。
しかし、先祖が「あなたのバトンはまだ燃え切ってません」と言おうものなら、容赦なく辞められない流れが来る可能性も…
これ以上は、私の頭レベルでは踏み込めない領域です。
少なくとも1、2年後の体の感覚がすべてを知っているのだろう、という気もします。
結局、体に決めてもらうのがベストなので、
健康第一で、体の感覚を拾う感度を日々上げながら、過ごしていく。
これにつきますね。