鈴木首相は仕方なく記者会見をしたが
それでも『拒否』は明言せず
『ノー・コメント』程度で抑える事になっていた。
鈴木の回想などによると
『重視する要なきものと思う』
と発言したらしい。
ところが新聞の見出しでは
首相の発言を『黙殺』と報じ
日本の同盟通信は海外に向け
『Ignore(黙殺)』と翻訳
それを米英の通信社は
『Reject(拒絶)』と言い換えた。
こうして鈴木首相の『黙殺』発言が
米国民を激高させた
…という『神話』が作られた。
8月6日、米国、広島に原爆投下!
8月9日、ソ連、日本に宣戦布告!
鈴木の『黙殺』さえ無ければ
これらの事態は免れたと
戦後しばらく信じられていたが
それは全くの口実に過ぎなかった。
実際には
鈴木の『黙殺』発言は
米国では何の関心も呼ばず
これに激高して原爆投下が決まったという
事実はない
全ては既定路線だったのだ。
なにしろ…
"米軍に原爆投下命令が発令されたのは
ポツダム宣言発表の前日だったのだ!"
ポツダム宣言の草案を作った
知日派の米国務次官グルーは
天皇の地位さえ保証すれば
すみやかに降伏すると確信しており
草案の第12条後半には
その内容が書かれていた。
しかし大統領トルーマンは
肝心のその箇所を削除して発表した!
原爆を投下する前に
日本に降伏させたくなかったのだ!
一方
ソ連はすでに2月のヤルタ会談で
ドイツの降伏3カ月後に
対日参戦すると確約していた。
そのため
日本の和平仲介の依頼に対して
態度を曖昧にして時間稼ぎをしたのだ。
そして原爆投下の報を聞き
『日本が降伏する前に』と
ソ連は大急ぎで宣戦布告したのである!
8月9日、午前10時30分
宮内で『最高戦争指導会議』が開かれた。
会議のメンバーは6人。
総理大臣・鈴木 貫太郎
外務大臣・東郷 茂徳
陸軍大臣・阿南 惟幾
海軍大臣・米内 光政
参謀総長(陸軍最高指揮官)・梅津 美治郎
軍令部総長(海軍最高指揮官)・豊田 副武
会議の冒頭
鈴木首相はいきなり言った。
『広島の原爆といい
ソ連の参戦といい
これ以上の戦争継続は
不可能であると思います。
ポツダム宣言を受託し
戦争を終結させる他はない。
ついては各人のご意見をうけたまわりたい。』
徹底抗戦を唱える阿南、梅津、豊田は
完全に機先を制され
ポツダム宣言受託を前提に
日本側がつける
希望条件についての討議となった。
米内、東郷は"国体護持"
すなわち
『天皇の国法上の地位を変更しない』
の一点のみを条件とする事を主張した。
鈴木もこの意見に近かった。
一方
阿南、梅津、豊田は
『国体護持』に加え
『占領は最小限であること』
『武装解除は自主的に行う』
『戦争犯罪人の処分は日本側で行う』
の四条件を提示。
一条件か四条件かで、会議は紛糾した。
その最中
長崎に原爆投下さるの報が届く。
結論は出ないまま
閣議の予定があったため
会議は一時中断した。
午後1時30分。
最高戦争会議と閣議の間に
鈴木首相は天皇に会議の報告を行う。
そしてその際
誰一人想像もしなかった事を
やってのけていた。
午後2時30分
閣議が開始される。
ここで阿南陸相は改めて
徹底抗戦論を展開した。
"武装解除の後では、連合国側に向かって
『それでは約束が違う』と
講義しても、もうどうにもならない。
イタリアの先例もあり
その轍を踏んではならない。
もちろん原子爆弾
ソ連参戦となった今、
ソロバンずくでは勝ち目はない。
しかし大和民族の名誉のため
戦い続けているうちに
何らかのチャンスがある。"
現在では徹底抗戦を唱えた軍人は
あたかも狂信者のようにみなされている。
だが
この阿南の発言の前半は
実に予言的である。
戦勝国が
敗戦国の憲法を作り替える等ということは
ハーグ条約違反の無法行為であり
ポツダム宣言にもそのような条約は
提示されていなかった。
しかし占領軍はそれを平然と行い
『それでは約束が違う』と抗議しても
もうどうにもならなかった。
そしてこの憲法の呪縛が現在もなお
続いている。
戦後日本の転落の軌跡を見れば
当時の軍部が抵抗したのは
全く妥当な根拠が
あったと言うべきなのである。
しかし一方で阿南は
『ソロバンずくでは勝ち目はない』
と言っている。
阿南が言い続けた徹底抗戦論には
最後まで合理的な成算は何もなかった。
閣議は紛糾し
休憩を挟んで7時間に及んだ。
その中で
太田 耕造文部大臣と
鈴木首相の間にこんなやり取りがあった。
『対ソ交渉が失敗したことの責任
そしてただいまの内閣の意見不一致
という点からみましても
筋道から言えば
総辞職すべきではなかろうか。
総理はいかがお考えななりますか?』
"総辞職をするつもりはありません"
"直面するこの重大問題を
私の内閣で解決する決心です。"
鈴木はこれまでも
議会などから何度も辞職を迫られたが
『どうも耳が遠くてよく聞こえません』
などと受け流してきた。
終戦に導くことが
この内閣の唯一の使命
それまでは何があっても
辞めないと決心していたのである。
しかし
鈴木の決心だけでは
どうにもならない場合もありえた。
"他ならぬ阿南陸相の意思一つで
内閣は簡単に崩壊する状況にあったのである!"
当時の制度では
陸相、海相が辞任し
陸軍、海軍が後任を出さなければ
内閣は総辞職に追い込まれた。
その後継内閣も
陸海軍が大臣を出さなければ成立しない。
つまり
阿南が辞職して鈴木内閣を崩壊させ
さらに陸軍が後継内閣に大臣を出さず
組閣を不可能にして直接軍政を敷き
本土決戦を敢行するという
事態も現実にありえたのだ!
この時
日本の運命は阿南 惟幾によって
決定的に左右された。
鈴木首相は
閣議を一旦休憩として
再度最高戦争指導会議を行うことにした。
7時間もの激論で
夜も遅くなったのに散会とせず
閣僚はそのまま待たされたが
その理由は後に明らかになる。
"鈴木首相は、再開する
最高戦争指導会議を
天皇が出席する
『御前会議』にした。"
御前会議は本来
儀礼的なもので、天皇は一切発言しない。
論議は途中の内容から結論まで
あらかじめ決定して『台本』まで作り
十分打ち合わせした上で行う。
ところが
今回は打ち合わせが一切ない
異例なものになるという。
"いや、
実は事前の打ち合わせはあった
天皇と鈴木首相の間で"
昼間
会議と閣議の間に報告に上がった際、
鈴木は天皇にこう申し上げ
了解を得ていたのだ。
『終戦の論議がどうしても
結論の出ませぬ場合には
陛下のお助けをお願いいたします』
大本営は
この御前会議に策略を感じたが
御前会議開催に必要な参謀総長と
軍令部総長の花押と
署名入りの書類はすでにあり
阻止しようがなかった。
鈴木首相の腹心・迫水書記官長が
その日の午前中に
二人を騙して判を押させていたのである。
かくして
8月9日午前11時50分
御前会議は開催された。
この会議には
『最高戦争指導会議』の6人に加え
平沼 騏一郎枢密院議長と
陸海軍両軍務局長
内閣総合計画局長官
書記官長が陪席した。
特に平沼枢密院議長は
会議の正式メンバーとされ
会議は通常の6名ではなく
7名で行われることになった。
ここに平沼を加えたのも
迫水書記官長だった。
憲法上、条約締結については
会議で決定した後で
枢密院に諮る必要がある。
だがこの切迫した状況下では
そんな時間はない。
そこで平沼議長を直接参加させ
枢密院の手続きを省略してもいいようにする
…というのが公式の理由だった。
しかし
平沼氏を参加させたのは
他に重大な意味があったのである。
鈴木首相は閣議の経過を報告。
次いで東郷外相が改めて
『一条件』案を説明した。
『皇室は絶対問題であるから
要望はこのことに集中する必要がある』
これに対し
阿南陸相は強硬に『四条件』を主張した。
『私は、外務大臣の意見には全然反対である!』
『本土決戦に対しても
それだけの自信がある!』
『一億枕を並べて斃れ(たおれ)ても
大義に生くべきである!』
『一条件』を主張したのは
東郷、米内、そして平沼。
『四条件』を主張したのは
阿南、梅津、豊田。
これこそが
わざわざ平沼をこの会議に入れた理由だった。
御前会議はもともと
結論を決めておいて行われる
『儀式』だったこともあり
総理大臣が務める議長は
あくまでも議事進行を掌るだけ
ということになっていた。
そのため
通常の6人で会議を開けば
鈴木首相を除いた5人では
2対3で『四条件』が有利となってしまう。
だがここはどうしても
完全に対立して会議では結論が出せないという
状況にしなければならなかった。
そこで
ポツダム宣言受託へ傾いていた
平沼を参加させたというわけだった。
こうして会議は3対3のまま膠着。
日付が変わり
2時間余りが過ぎても
決着の見通しは全く見えなかった。
このままこの会議は
結論を見ずに終わるのだろうと
誰もが思った。
まさか鈴木首相が
自分の意見を表明して表決
などという強硬手段をとるはずがない…
その時
鈴木首相がゆっくり立ち上がった。
『意見の対立がある以上
甚だ畏れ多いことながら
私が陛下の思召しをお伺いし…
聖慮をもって
本会議の決定としたいと思います。』
「それならば、意見を述べよう」
「私は
外務大臣の意見に賛成である」
天皇陛下の『聖断』であった!
続く。
