意味のある死が有為で意味のない死が無為

 

死が万民の救済ではないけど、宗教者によっては死が万民の救済だという。

 

不死にも解のない救済があろうが、不死だろうが不死でなかろうが分からない。

 

命の終わりに救済があると穏やかに死ねるだけで、末期(まつご)の前に救済があると肉体の死に怯える。

 

結局、暗殺されたときに動揺しない人間がいる事が漫画世界の秘密の理想で。

 

残される者に救済がないなら死は救済ではないとも言える。

 

だから世紀末という幻想は全員の死を夢想する。可哀想なのが心中で身勝手なのが心中。

 

死を超越できないから死のうとするのは、死が分かっていないという事。

 

じゃあ、僕も死が分からないし、俺に名誉の死はないし。

 

頃ス側の倫理は、美意識だけど小さな理想ではないにせよ背負う事を意味するので、犯罪者を頃すことは常人を頃スより咎(とが)があるとされる。小人なら頃せば良いし、小人なら頃ス意味もない。

 

そこで、死に救いがあると思う錯覚があるので、逆に終身刑を罪人に与えて永遠に繋ぎ止める。

 

罪人に不名誉な死があれば皆が清々(せいせい)するし、罪人に名誉は与えられない。

 

皆の気分が悪いのは、俺が記事を提供するから?

 

罪人に苦しみがあれば皆が斟酌出来るし、逆に更なる懲罰に動く者もいる。

 

人の痛みなんて感じなければはけ口があった方が清々するから。

 

死が救済なのは、有史からかも知れない。有史以来、人は故人の憎悪すら受け止めるから。

 

文明を拒否するのも、記憶が救済をもたらさないと極論するのだろう。

 

ここで問題は、殆どの健全な俺たちはサヴァンだという事か?恐らく。

 

俺が汚辱を書いているのでなく、オマエらが己の記憶を反芻してるんだと。

 

今に俺が救済としてお勧めするのが、愚民政策の打破だけど。愚民政策も救済だし。

 

結局、本質は事の多寡でなく、個人における己のトラウマのデカい奴が荒れ狂うので、本当は精神世界の事を文字でネタバレしないとイケないんだが。万民でなくとも半数に絶望がもたらされるなら、精神世界について宗教的な記述をした旧世紀の偉人の方が賢い。

 

そこで、宗教が食えるものであった時代だから、丁寧に精神世界が宗教に梱包された可能性を考えたり、いつの時代も何かの信仰(思想信条)を万民が持つ事を考えたら、今の時代の豊かだか今の時代の貧しさだかを維持するには、知識の全部が急速に吸収できるフォーマットである必要もあるのだが、その考え方は信徒の者だから、破壊ももたらす。

 

でも、正直、知識として知っても感覚として分からない事が世の中に多いし、結論としては軟弱でない者だけが畏怖されると。

 

テレビに写る人は軟弱ではないけど、繊細でもあるから。

そういう人への救済は死だけど、自殺ではない。他殺ではない。

 

だから、作り物の死とかは偽りでしかない。

作り物でないと言える死はない。でも人間に寿命はある。寿命が作り物であるとは誰にも言い難い。

死として形作られた死は救済でない。死は救済でない。