サトウユウイチのごすぺる放浪記 -620ページ目

キリストへの集中(後篇)

 昔、「ローマの休日」のグレゴリー・ペックが大好きで、

あんな大人になりたい、なんて思ってたもんだけど、

背丈も無いし、顔もこれだしで、まあ、なれるとしてせいぜいダニー・デ・ヴィートだなと。


 今は、ダニーみたくなれたら凄いことだと思いますけどね。(笑)


 さて、今日は教会説教の続き。ブログ主も驚く、まさかの前編・後篇の二部構成です。

 これでまた、お客さん逃げちゃうんだろうなぁ…


☆☆☆☆


 牧師のタマゴは神学校で、「説教の中で神学者の名前を出してはいけない、進学用語を使ってはならない」と必ず教えられます。


 しかし今日は、あえてその禁を破り、一人の神学者を紹介します。



ユーリのごすぺる放浪記


                  カール・バルト(Karl Barth) 1886-1968



 カール・バルトは20世紀最大の神学者と呼ばれています。


 17世紀から18世紀のヨーロッパは、激動の時代を迎えていました。たとえば、産業革命です。

 この時を境に、世界は効率、あるいは経済を優先することになります。


 学問の世界でも、それまでは学問の王様だった神学がしりぞけられ、経済学、社会学、物理学等の普遍的な事象を扱う学問が主流となります。

 そのことに危機感を覚えた神学は、教会の壁を乗り越え、普遍的な学問となろうとしました。

 そして、19世紀にそれが最高潮に達し、神学はとてもハイレベルなものとなったのです。


 ところが19世紀神学は普遍的、客観的になったとたんに力を失い、失速し、破たんします。


 神学は第一次世界大戦を止められなかったどころか、それに積極的に手を貸してしまったのです。


 その危険性に気付いたのがバルトでした。

 神学は決して普遍性を獲得してはならない。神学はあくまでも教会の中のもの、個人的なものでなければならない、というのが彼の考えでした。


 バルトは常に聖書にこだわり、神の言葉に基づくことにこだわったのです。


 これにより神学は息を吹き返し、第二次世界大戦を抑止し、戦後の社会の復興に力を発揮することとなったのでした。



 今日の聖書箇所(前編参照)は、ペテロとヨハネの取り調べのシーンです。


 「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 (使徒言行録4章12節)


 その言葉は素朴で、実直で、学者の言葉ではなく無学な人の言葉でした。

 しかし、そのかたわらには実際に救われた者が立っていたので、誰も言い返すことができなかったのです。


 私達クリスチャンが語るべき言葉は普遍的な言葉ではなく、特殊な言葉であるべきです。

 しかし、そこに恵みの積み重ねを添えるとき、それは本当の意味での普遍的な言葉となってゆくのです。


 人々にキリストのことを伝えようとするとき、私達は洗練された言葉、普遍的な言葉を使いたくなります。

 しかし、それは間違いです。


 不器用な、率直な言葉。

 そして、そのかたわらに、私たちが得ている救いの事実を置く。

 そのとき、言葉は大きな意味を持つのです。