聖霊降臨節第19主日礼拝
2014年10月12日、北見望ヶ丘教会では聖霊降臨節第19主日礼拝が行われました。
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(コロサイの信徒への手紙1章24節~29節)
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全なものとなるように、知恵を尽くしてすべての人を論し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。
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説教題 「苦しみにあずかる」 秋山千四郎師(北見望ヶ丘教会)
私はラジオが好きで、昔は若者向けの深夜放送をよく聴いていましたが、今は中高年向けの深夜放送を聴いています。この番組では昔、最後に必ず「今日もなにかいいことがありますように。」という言葉でしめくくっていました。しかし私は、この言葉に違和感を感じていました。「今日もいい一日でありますように。」と言うほうがいい。「なにかいいことがありますように。」は祈りの言葉としてはおかしい。なぜなら、いいことが無くても良い1日にすることはできるからです。
結婚式の言葉でも言います。「すこやかな時も病めるときも。」たとえどんな状況におかれていても。信仰と希望と愛を持っていれば、すばらしい1日、すばらしい1生にすることができるのです。
パウロは苦しみから逃げませんでした。彼は苦しみを受けとめて、荷ってゆく人生を生きてゆこうとしていました。パウロにとって信仰とは、苦しみを避けて何かいいことがないかと思いながら生きることではありませんでした。苦しみは、避けるためではなく荷うためにある。これが、信仰に生きるということだと信じていました。
苦しみは、逃げようとすると追ってきます。しかし、荷おうとすると逃げてゆきます。逃げてゆく苦しみをつかまえて、さらにそれを荷おうとする時、その苦しみは希望となるのです。
苦しみを荷うことから、生きるということがはじまってゆきます。そのようにして始められた生き方は、かならず希望へと向かってゆきます。キリストの十字架も、苦しみから栄光へと変わっていったのです。
それが聖書の約束です。苦しみは、荷えばよいのです。それは希望となります。
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(ひとりごと)
苦しみと言えば、最近の僕の場合はうつ病による2年間の休職期間をおいて他はありませんね。復職したのは去年の11月ですから、あれからまだ1年ほどしかたっていません。
苦しみのさなかにいた時は本当に大変で、診療内科の先生から「泥水を飲んだ」とまで形容された時期でしたが、今はあの時期があったおかげで自分の心の中のどこかが強くなったという実感はあります。
もっとも僕の場合、苦しみを荷おうとしたわけではなく、ただひたすら逃げ回り、やりすごそうとしただけでしたが。(笑)
