聖霊降臨節第16主日礼拝 | サトウユウイチのごすぺる放浪記

聖霊降臨節第16主日礼拝



 2014年9月21日、北見望ヶ丘教会では聖霊降臨節第16主日礼拝が行われました。
 この日は収穫感謝日でしたので、祭壇の前には野菜や果物がささげられました。
 また、日本基督教団北海教区道東地区の交換講壇日でもありましたので、いつもの秋山先生は新得教会に向かい、私たちは帯広教会から白崎先生をお迎えしました。

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(フィリピの信徒への手紙 3章 12~16節)
 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。

 なすべきことはただ一つ。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

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(説教)「完成させられる人生」 白崎師

 わたしたちは、さまざまな制約の中で人生を生きています。わたしたちは、なるべくなら山坂の無いおだやかな人生を送りたいと思っていますが、人生には必ず、越えなければならない山や耐えなければならない時があります。

 そのような時、神を信じる者は祈ることができます。神様と対話することができます。祈りとは、今よりも先の自分に手を伸ばし、今の自分と繋いでゆく行為だとも言えます。
 パウロは自分自身が完全なものではなく、なんとかして完全を捕えようとしているだけだと言います。あのパウロですら、自分が完成された存在ではないと自覚しているのです。しかし、召される(死ぬ)時に自分の人生が完成させられるために走っているのです。

 若いころには気力、体力、美しさが与えられていますが、それらは歳とともに失われてゆきます。理想を言えば人は終わりに向けて人生の総仕上げをしてゆきたいと思うものですが、歳ごとに衰えてゆく自分の力で人生を完成させることは困難です。

 すべての人に、やがて死が訪れます。人生を完成するということは、人生のすべての喜びや悲しみその他のすべてに意味が与えられ、納得することができ、ケリがつけられることだと思います。自分の人生の最期に、そのような時が訪れることを信じることが大切です。そして、完成させてくださるのは神様です。私たちの人生は、いっしょうけんめいやっていれば、最後に完成させることを神様におまかせすることができるのです。