聖霊降臨節第15主日礼拝
2014年9月14日の日曜日、北見望ヶ丘教会では聖霊降臨節第15主日礼拝が行われました。
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(コリントの信徒への手紙一 13章1節~13節)
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い、愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(ギリシア、コリントスの運河)
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(説教)「最も大いなるもの」 秋山師
人間の人生は衣食住がベースです。私たちはそれを得て、維持することを学ばなければなりません。大人になることは、自分で衣食住を得ることができるようになることだとも言えます。
それでは、人生には衣食住さえあればよいのでしょうか。残念ながらそうではないでしょう。聖書に書いている有名な御言葉のとおり、人はパンだけで生きるのではなく、神から出る言葉で生きるのです。そして人は、「信仰」と「希望」と「愛」によって生きるのです。
それでは、信仰と希望と愛の反対の言葉を考えてみましょう。
信仰の反対は不信仰や疑惑、希望の反対は失意や絶望、愛の反対は憎しみ、無関心です。そして、これらの言葉は元の言葉のごく近いところにあるのです。
信仰には不信仰や疑惑がつきものです。信仰だけの完全無欠な世界があるわけではありません。同じように、愛には憎しみが、希望には失望がつきものです。
信仰も希望も愛も、何の苦労もせずに得られるものではありません。信仰は不信仰や疑惑にあらがって得なければなりません。希望は絶望の中で望むもの、愛は憎しみと無関心を乗り越えて得るものです。それらはすべて、無理難題と言っていいものです。しかし、できるのです。その鍵となるのは「祈り」です。
信仰と希望と愛、という人生のキーワードになるものは、祈りだということもできます。
そして、祈ることによって起きることは、実は私たちが信仰を得ることでも、希望を得ることでも、愛を得ることでもありません。それとは逆に、信仰と希望と愛に、私たちが捕えられるのです。
だから、祈ることは大切なことなのです。大切にしてゆきましょう。
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ちなみに僕は、衣食住、信仰、希望、愛の他に、映画と本と音楽が無ければ生きてゆけません。
たぶん、1週間もたないんじゃないでしょうか。(笑)
それでは皆さん、よい1週間を。

