聖霊降臨節節第10主日(逝去者記念礼拝)
2014年8月10日の日曜日、北見望ヶ丘教会では聖霊降臨節第10主日礼拝そして逝去者記念日礼拝が行われました。
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(コリントの信徒への手紙一 12章14節~26節)
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前はいらない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっています。
ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(ウィトルウィウス的人体図 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1487年ごろ)
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説教題「互いに生かし合って」 秋山師
「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
これは、いかにして共同体を成立させ、維持させるかの秘訣です。
共同体の中で弱い立場にある人との関係がちゃんとできているかどうかが大切なのです。
世の中では強い立場にある人とどう関係を持つかが大切だと思われていますが、実は、世の中の弱い立場の人と誠実な関係を結ぶことによって、本当の共同体は成り立つのです。
今日は逝去者記念日。ある意味もっとも弱い立場のかたがた、主の御名において亡くなられたかたがたと正しい関係を持つ日です。
神の元の理想社会とは、世の中の弱さ、欠け、破れを皆でわかちあう社会、ひとつの部分が苦しめばすべての部分がともに苦しみ、ひとつの部分が喜べばすべての部分がともに喜ぶ社会です。
そのような社会にこそ、勇気と可能性が埋蔵されているのです。
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(ひとりごと)
礼拝の終了後、逝去者記念愛餐会が行われ、みなで食事をともにしました。
そのなかで、子供のころ終戦時にフィリピンから引き上げてきたかたのお話を聴く機会がありました。
引き上げ中に大勢の人々が亡くなってゆくなかで、九死に一生を得たという話でした。
戦争で最終的に犠牲を払うことになるのは、社会の中で最も弱い者たち、特に子供たちです。



