聖霊降臨節第9主日礼拝
2014年8月3日の日曜日、北見望ヶ丘教会では聖霊降臨節第9主日礼拝が行われました。
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(コリントの信徒への手紙二 6章1節~10節)
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。
大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。
左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。
わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
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説教題「今や恵みの時」 秋山師
物理学において、光の速さは常に一定であり、決して変わりません。
逆に言うと、光の速さ以外のもの(重さ、空間、時間)は変わります。
キリスト教信仰において、物理学における光速にあたるものがあります。それは、神の言葉、御言葉(みことば)です。
神の言葉自体が、その神の言葉を評価しています。(たとえば、「言葉は神であった」など。)
私たちは、そのように理解し、信じています。
そして、御言葉以外のものは動いています。神の言葉の前では絶対的なものは存在しません。すべては相対化されてしまいます。
2節の言葉、「恵みの時に、~あなたを助けた」は、イザヤ書38章の言葉です。この言葉を前提に、パウロは論を進めます。
苦難、欠乏、行き詰まりなどの厳しい状況のただ中で、パウロにこの言葉が与えられました。
現実は苦難の中にただ中にあるが、今は恵みの時代だ、というのです。
私たちは普通、現実にあわせて言葉のほうを変えようとします。それは現実への屈服であり、生きることの放棄です。
クリスチャンならば、現実にあわせて神の言葉を変更することは許されません。
たとえ現実が最悪でも、神の言葉が「今は恵みのとき」と言うならば、クリスチャンは大いなる忍耐によって、現実のほうを神の御言葉にあわせる生き方をしなければなりません。戦わなければなりません。
だからこそ、クリスチャンこそが真実に生きる可能性を秘めているのです。
(アルベルト・アインシュタイン 1879~1955)
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(ひとりごと)
僕が昔、クリスチャンになる前に入り浸っていたパソコン通信ニフティ・サーブの世紀末フォーラムというところには、聖書の言葉にやたら詳しい人々が大勢いました。
彼らは皆、聖書の言葉を自分の好き勝手に解釈することが大好きで、特にヨハネの黙示録がお好みでした。
そんな彼らを見ていたからこそはっきりと分かることなのですが、心の中に例えけしつぶほどでも信仰が無ければ、聖書の御言葉といえどもただの文字の羅列にすぎません。
まさに、「馬の耳に念仏」です。


