聖霊降臨節第8主日(置戸教会、北見望ヶ丘教会合同礼拝) | サトウユウイチのごすぺる放浪記

聖霊降臨節第8主日(置戸教会、北見望ヶ丘教会合同礼拝)




 2014年7月27日、置戸教会にて置戸教会、北見望ヶ丘教会の合同礼拝が行われました。
 本来ならここで、置戸教会の荒谷宣教主事の説教のメモを(もちろんご本人の了解を得たうえで)書きたかったところなのですが、遅刻して礼拝終了まぎわに滑り込むという失態を犯してしまいましたので、今回は聖書箇所だけでごめんしてちょ。

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(マタイによる福音書 8章20節)
 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。
 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない。





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(ひとりごと)
 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は言ったそうです。「人間ならば誰しも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」
 この言葉を引用して言い争いの相手をやりこめようとする人をたびたび見かけますが、はたから見ていると、この言葉そのものが、その言葉を口にした本人こそが現実を見ていないことを証明してしまうという、魔法の(悪魔の?)言葉です。

 さて、この言葉のとおりに、イエス様にこの世を救う救世主としての姿しか見ようとしなかったペテロが十字架の死を預言するイエス様をたしなめ、逆にイエス様からたしなめられたというお話。
 何度もイエス様が十字架について言及しておられるにもかかわらず、それを理解しようとしなかったペテロこそ、まさに「見たいと欲する現実しか見ていない」人だったと言えましょう。

 とはいえ、これは何度も言っていることですが、私たちはイエスの十字架がどんなものか具体的に知っているからこんなことが言えるわけで、はたしてイエス様がまだ健在で、これからイスラエルと宗教的指導者(イコール世俗的指導者)となろうとしていると民衆から思われている姿を前にして、ペテロと同じように見たいと欲する現実を見ず、現実のすべてを見ることができるかと考えると、それははなはだ心もとない。
 このような、見たいと欲する現実しか見えない人間が、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従うためには、子供のような純粋な信仰しか無いのだろうなと思うのです。