聖霊降臨節第7主日礼拝 | サトウユウイチのごすぺる放浪記

聖霊降臨節第7主日礼拝




 2014年7月20日の日曜日、北見望が丘教会では聖霊降臨節第7主日礼拝が行われました。

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「ガラテヤの信徒への手紙」5章2節~11節

 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、〝霊〟により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。



          (執筆中のパウロ ブーローニュもしくはトゥルニエによる 1620年ごろ)

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説教「恵みに立ち返る」 秋山千四郎師

 わたしたちは、時にクリスチャンとしての証しを立てなければならないことがあります。
 かつては禁酒禁煙で証しを立てる、という考え方がありました。でも残念ながら、これはクリスチャンとしての証しにはなりません。そもそも聖書はお酒を否定していません。(イエス様のアダ名は「大酒飲みの食いしん坊」でしたしね。ユーリ)
 では、やさしさ、親切、思いやりを持つことが証しとなるでしょうか。しかしこれはクリスチャンであること以前の、性格の問題です。
 それでは、聖書に詳しいことが証しとなるでしょうか。もちろん聖書の知識があるにこしたことはないのでしょうが、クリスチャンでなくとも聖書に詳しい人は大勢います。

 では、どのようにしてクリスチャンとしての証しを立てればよいのでしょうか。

 ガラテアの教会員たちは、はっきりとした目に見える証しを欲しがりました。
 そのため彼らは洗礼のほかに、ユダヤ教の律法を重んじ、割礼(いちおう説明しておきますが、お○ん○んの皮を切り取ることです)、食物規定などをユダヤ教のやりかたを取り入れたのです。
 そんな彼らに、パウロは断言します。「律法によって義とされようとする者は、キリストと関係ない者とされる。」、「キリストに結ばれていれば、割礼による必要はない。」と。

 クリスチャンは律法ではなく、信仰によって義とされるのです。キリストにしっかりと結ばれていること、そして、愛の実践を伴う信仰こそが大切なのです。

 20世紀を代表する神学者で、ナチスと戦ったボンヘッファーは言いました。
 クリスチャンとして証しを立てるべきものは二つ。ひとつは祈ること、もうひとつは正義を行うこと。




                  (ディートリッヒ・ボンヘッファー 1906~1945)

 クリスチャンであることを証しするのにお酒煙草は関係ありません。いい人を装う必要もありません。(歌の歌詞ではありませんが、ありのままでいいのです。)聖書の知識も、あったからといってどうということでもありません。
 クリスチャンなら、イエス様との結び付きを大切にするべきなのです。
 自分の救いを求め、隣人のために何かをなすことこそが、クリスチャンとしての存在証明なのです。

 来週は、置戸教会との合同礼拝が置戸で行われます。この時間は、北見望が丘教会がクリスチャンとしての証しを立てるための重要な時間となることでしょう。