受難節第6主日礼拝
2014年4月13日の日曜日、北見望ヶ丘教会では受難節第6主日礼拝が行われました。
当日は秋山先生が置戸教会に行かれていたため、説教は教会役員による朗読説教でした。
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(マルコによる福音書14章32節~42節)
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
さらに、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
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「主の受難を想いつつ」 榎本保郎著「新約聖書一日一章」より
14章から15章は。いよいよイエスの捕縛、裁判、十字架、死が書かれているところである。イエスがどのようにして十字架につかれたかがくわしく記されているが、私たちはそれを意味深く受け取るべきである。
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32章からは有名なゲツセマネの祈りが記されている。「そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた。『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。』」。
ここに私たちの祈りの模範がある。私たちはだれに祈るかをはっきりさせなかればならない。わたしたちは天の父に祈る。「あなたにはできないことはありません」という信頼なしに祈りは生まれてこない。この信頼が祈りの基盤である。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」。杯は十字架である。
次にイエスが「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と言われた。この祈りはキリスト教にしかない。他の宗教にはこの「しかし」がない。神がよしとなさることをしてください、私はそれを神から与えられたものとして感謝して受け、従います、という神への信頼である。
なんとしても私の病気をなおしてくださいと祈るのもおかしいが、反面、神に期待もしないで、いっさいは神の御旨であるというのも祈りではない。神にはなんでもできるという深い信頼を持って、私たちは大胆に自分の求めを神に申し上げるべきである。
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(ひとりごと)
「ゲツセマネの祈り」、イスラエル近郊のオリーブ山での祈りは、十字架に向けてのクライマックスです。
マルコの福音書ではこの後、イエス様がまだ話し終わらないうちに、イスカリオテのユダが連れてきた群衆によってイエス様は捕えられ、十字架につけられることになるのです。
十字架を前にして、神様に「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、さらに、「わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」と祈る神の子、救世主の姿にあなたは何を感じるでしょうか。
