受難節第2主日
2014年3月16日の日曜日、北見望ヶ丘教会では受難節第2主日礼拝が行われました。
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(マルコによる福音書4章2節~9節)
イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
「よく聞きなさい。種をまく人が種まきに出ていった。まいている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
(マルコによる福音書4章14節~20節)
種をまく人は、神の言葉をまくのである。
道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉がまかれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らにまかれた御言葉を奪い去る。
石だらけの所にまかれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
また、ほかの人たちは茨の中にまかれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
良い土地にまかれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
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(榎本保郎著「新約聖書一日一章」より)
第4章の2節から9節までは種まきのたとえが語られ、14節から20節では、イエスがその説明をされたことが記されている。このところではじめの3つ、すなわち、道ばたに落ちた種、石地に落ちた種、いばらの中に落ちた種のところでは、みな「御言葉を聞くと」と書かれているが、よい地にまかれたところでは「御言葉を聞いて受け入れ」となっている。「御言葉を聞くと」というのと、「御言葉を聞いて受け入れ」とは、よく似ているが、そこに根本的な違いがある。
「御言葉を聞く」というのは、自分をしっかり持っていて、そのうえ御言葉を聞き、取捨選択することである。「御言葉を聞いて受け入れる」ということは、自分があって御言葉を聞くのではなく、むしろ御言葉に聞く、御言葉に自分が導かれることである。自分がなく御言葉が主人である。
たとえば、前者は買い物に行き、自分の気に入ったものがあれば買うということであり、後者は、マタイの福音書13章にあったように、りっぱな真珠を見つけると物を売り払ってでも手に入れようとすることである。そのように、御言葉によって支配されていくのを、私は御言葉に聞くというふうに考える。そこに「御言葉を聞く」と、「御言葉に聞く」との違いがあると思う。
道ばたとか、石地とか、いばらの中というのは、人間がみな持っているものである。よい地とは、草なく、石なく、やわらかい土地であるとは書いてない。御言葉を聞いて受け入れるとよい地になる。ここでは、御言葉に対する態度が問題である。
たとえば、私は忙しいからあの人のような信仰はできないとか、あの人は恵まれた人だからそういう状態になったとか、あの人は苦しい経験をしたからあんな信仰を持つが、私にはそんな経験がないから、というように、私たちは畑の状態によって種の生長が左右されるように思いやすいが、そうではない。
御言葉を聞いて受け入れる態度によって、そこによい地ができていくのである。人が、御言葉に対してどのような態度をとるかによって、御言葉が実を結ぶか、結ばないかがきまるのである。
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(ひとりごと)
先週から、教会歴は「受難節」に入りました。
受難節はクリスマスに対するアドベントのようなもので、復活祭「イースター」に向けてのカウントダウンであり、キリストの十字架による死と、そこからの復活に想いをはせる期間です。
今年のイースターは4月20日。この日をすぎると、北海道にも遅い春がやってきます。
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