降誕節第8主日 | サトウユウイチのごすぺる放浪記

降誕節第8主日




 2014年2月16日の日曜日、北見望ヶ丘教会では降誕節第8主日礼拝が行われました。
 この日は秋山先生が置戸教会に行っておられたため、教会員による朗読説教が行われました。

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(マルコによる福音書 3章1節~5節)
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

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朗読説教 「安息日の主」 (榎本保郎著「新約聖書一日一章」より)

 当時のイスラエルでは、安息日には、緊急やむをえないこと以外はしてはならないということになっていた。私たちも、この世の生活の中で神の御言葉に養われる困難さを思う。静まることが大事であって、そのために安息日を守ることがたいせつである。しかし、日曜日の礼拝は守りたいが、あのことも、このこともしなければいけないのでと思っては、礼拝は守れるものではない。そいういう点で緊急やむをえないこと以外はしないということは、やはり信仰生活の一つの知恵であると思う。
 
ところが、そのことが、こんどは一つの問題となってきた。ここに出てくるように、安息日には、仕事をしないということが目的となってしまった。言いかえると、安息日に仕事をしないことが、神に喜ばれることだと思ったのである。
 ほんとうは、神は安息日に仕事をするなと言われたのではなくて、神を礼拝するために仕事をしないということである。けっしてそれは目的ではなく、一つの手段である。
 手段の目的化ということは、宗教生活において起こる最も大きい誘惑である。今日においてもそういうことはあると思う。私たちは気をつけていないと、宗教生活が目的になってくる。
 たとえば、昔は酒を飲まない、タバコを吸わないということが、キリスト信者の条件のように考えられ、酒を飲むから教会へ行けないというようなことを言ったものである。それらは、何も信仰と結びついているものではない。ただ信仰生活をしていくことの条件、手段としては尊いものである。しかし、それが目的となってしまっては、意味のないことになってしまう。

 イエスが、会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいた。人々はイエスが安息日をどのように解釈されるかを伺っていた。人々にとってこの人の手は、前からなえていたのであるから、安息日にいやす必要はなかった。しかしイエスは、安息日にその手をいやされた。
 いままで手がなえていたのであるから、いつかなおればよいというのは、他人の考えで、本人は一時も早くその不自由さから解放されたいと願っているのである。本人の立場に立てば、いまその手をいやすことが大事なことであった。
 宗教生活に熱心のあまり、非情になり、非人間的な宗教家になってしまうことは気をつけねばならないことである。イエスは安息日はいったいだれのためにあるのか、善を行い、神の御旨を行うためにあるのではないかと言われたのである。

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(ひとりごと)
 この日の礼拝終了後に讃美歌練習の時間が設けられ、模範演技(笑)といことで讃美歌を一曲歌わせていただきました。
 その後、ある教会員のかたから、自分のお葬式の時にはぜひ讃美歌を歌ってほしいと頼まれました。
 これは、一人の歌うたいとしては、とてもうれしいことですし、たいへん名誉なことです。
 でも、できればその日が少しでも後になるように、いつまでもお元気でいてください。(笑)