降誕節第6主日
2014年2月2日、北見望ヶ丘教会で降誕節第6主日礼拝が行われました。
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(マルコによる福音書1章40節~45節)
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
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説教題「イエスの憐み」 秋山千四郎牧師
イエス様がおられた頃の古代ユダヤの社会では、重い皮膚病にかかった者は汚れた者、罪人、神から見捨てられた人と見なされました。
そして、その人は旧約聖書に書かれた規定により、人との接触を一切断たれました。
ある日、その皮膚病患者がイエスに清めを願うと、イエスは憐みをもって病気を癒します。
「深く憐れんで」とは、「激しく憤って」とも訳すことができます。
病気と、病気にかかった彼を追い詰めた社会に対する憤りを感じたのでした。
そしてイエスは「手を差し伸べてその人に触れ」ます。
これは、当時の社会では大変なことでした。あきらかに旧約聖書に記された律法に対する重大な違反行為だったのです。
人間の救いとは、深い憐みとふれあいによってなされます。それらは、彼が病にかかっていらい失われていたものでした。
彼はここで、イエス・キリストから、一人の人間として手当を受けます。彼は癒されないはずがありません。失われた者が取り戻されたのです。
さて、ここでイエスは彼に厳重に注意をされます。このことを決して口外しないこと、そして、旧約聖書の律法にのっとって癒されたことを証明することでした。
奇跡がなされた、ということが独立して広められることがイエスの望みではなく、彼が社会に復帰することが望みだったのです。
イエスの望みは「伝道」よりも、この人がもう一度社会で生きることができることでした。
ところが、この人は言い広めてしまいました。
ここは難しいところなのですが、伝道とは、やればいいというものではありません。自分の願いがかなった、ということを宣伝することが伝道ではなく、イエスの福音を宣げ伝えることがそうなのです。
この人がしたことは、結果的にイエスを町の外へ追いやることになってしまいました。
自らに与えられた持ち場で、けんめいに生きることこそが真の伝道となるのです。
私たちは主の派遣に生きるためにイエス様と出会いました。
「召集」と「派遣」、これらは教会の大切な機能のひとつですが、これを繰り返す聖なるリズムのもとに生きることが、クリスチャンの大切な生き方なのです。
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(ひとりごと)
気のせいか、2月に入って寒さも少しゆるんできたような気がします。
とは言っても、外の気温はマイナスの日々が続いていますが…
病気といえば、もしかすると大切なことをこのブログの読者のかたがたに報告していなかったかもしれません。
うつ病にかかり、2年近くの長きにわたって仕事もお休みしていましたが、無事回復して11月の末に仕事に復帰しました。
休職の期間、体と心を守ってくださり、こうして無事に仕事に復帰させていただいたことをイエス様に感謝いたします。
