降誕第4主日
1月19日の日曜日、北見望ヶ丘教会では降誕節第4主日礼拝が行われました。
秋山先生は置戸教会に牧会に行かれたため、教会員による朗読説教として、榎本保郎著「新約聖書一日一章」から一節が朗読されました。
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(マルコによる福音書1章34節)
イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、 悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
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(朗読説教)
34節に、「多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された」とある。「みな」という言葉と「多く」というという言葉には差があると思う。みながいやされたのではなく、そうでない者もいたということである。いやされなかった人もいたという事実には、二つの意味があると思う。
一つは、イエスのところに来ながら信じなかった人があったということである。それゆえ、イエスの力を十分受けることができなかったのである。「あなたの信仰があなたを救った」とイエスはよく言われる。それは、私たちが神の恵みをしっかりと受けとめることである。いくら恵みが注がれても、それを受けとめなければ無意味である。不信仰のゆえに神の恵みを逃した者がいるということである。
もう一つは、病気は刑罰とかのろいとかいうようなものではないのである。人間の不幸は、神の怒りと思いやすいが、けっしてそうではない。昼もあなたのもの、夜もまたあなたのものというように、暗いときも神の祝福の中にあるという考え方である。そういう意味で、ある者はいやされ、ある者はいやされないということも神の御心の中にあるのである。
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(ひとりごと)
最近の北見の夜は、マイナス20度を超えていますが皆さんいかがお過ごしですか。(笑)
信仰と哲学の違い、ということを最近よく考えます。日本のクリスチャンには真面目な人が多いと言われますが、確かに、あの分厚い聖書を読みこなしている人が多いわけですから、さもありなんといったところです。
ただ、聖書を読んでいると、その字面を追って自分なりの思いをめぐらせてしまうことがよくあります。でもそれは哲学であって信仰ではないんだよな、ということを自分に言い聞かせています。
信仰とはもっと単純なもの、簡単に言ってしまうと信じるか、信じないかしかないんだと思うわけです。
聖書の言葉からいろいろと思いをめぐらせていくことは大切なことではあるのだけど、あまりやりすぎると哲学になってしまって信仰からは離れていってしまう危険性がある。それは注意せねばならんなと思うわけです。
