聖霊降臨節第11主日
7月28日(僕の誕生日の次の日で、「きょうの音楽会」に出演する前(笑))の日曜日、北見望ヶ丘教会の聖霊降臨節第11主日礼拝では、「慰めがあるから」と題して秋山牧師の礼拝説教が行われました。
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(使徒言行録9章26節~31節)
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリヤに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
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前回お話ししたとおり、回心によって「怒りの器」から「あわれみの器」へとかえられたパウロ(サウロ)は、キリスト教徒を迫害するために行ったダマスコでキリストの福音を宣べ伝えたため、ユダヤ人に命を狙われることになりました。
そのパウロはキリストの弟子の仲間になるためエルサレムに向かいましたが、迫害者として有名だったパウロを皆は恐れました。
しかし、バルナバがパウロと教会の間をとりもったため、彼のおかげでパウロは教会に受け入れられることになります。
ところが、そのパウロにユダヤ人の凶刃が迫ったため、パウロは出身地タルソスに帰され、その後10年近くをアラビアですごし、ふたたびタルソスに戻ったのは前回お話ししたとおりです。
その不遇の時代を送っていたパウロを探し出し、ふたたび復帰させたのは、やはりバルナバでした。
バルナバ無しにパウロは存在しえなかった、と断言することができます。
つねに弱い者の側に立つバルナバは、「なぐさめの子」という名前の意味のごとく、人を救うのは「処罰」ではなく「なぐさめ」であることを体現したのです。
そして、そのバルナバの背後には我らの贖い主、イエス・キリストのなぐさめとゆるしがあるのです。
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前回はパウロの話でしたが、今週の話の主人公はバルナバでした。
バルナバは聖書の使徒言行録の中でだけ、それもパウロのサブ・キャラクター的な存在で書かれている人物なのでクリスチャン以外の人にとってはおそらく名前も聞いたことがない人でしょうが、説教にもあったとおり、まさにバルナバ無くしてパウロ無し。
さらには後に福音書の著者となったマルコをも救ったことで、原始キリスト教発展を語るうえで決して無視することの許されない、まさに縁の下の力持ち的な人物です。
